古文対策問題 040(沙石集「歌ゆゑに命失ふ事」)
【本文】
ある武士、年ごろ殺生を好み、遊びにても、多くの鹿を射殺しけり。ある時、深山に入りて、大きなる鹿を追ひて、谷へ追ひ詰め、矢を抜きて、射むとす。
その時、鹿、うしろを顧みて、涙を流して、かく詠める歌、声、朗々と聞こえけり。
あはれとも 思ふ心は なけれども ただ何となく 涙落ちぞ流るる
と詠み終わる声も絶えぬに、矢、当たりて、倒れ伏しぬ。武士、これを見て、心中に、「不思議の事なり。畜生なれども、歌を詠み、命の終わりを知るか。」と、あはれに覚えて、ただ今、落涙せり。
さて、家に帰りて、弓矢を折り捨て、出家入道して、菩提を弔ひけるとぞ。歌の徳、かばかりなり。
【現代語訳】
ある武士が、長年、殺生を好み、遊びであっても、多くの鹿を射殺していた。ある時、深い山に入って、大きな鹿を追いかけ、谷へ追い詰め、矢を抜いて、射ようとした。
その時、鹿が、後ろを振り返って、涙を流して、このように詠んだ歌が、声朗々と聞こえてきた。
((お前を)かわいそうだと思う心はないけれども、(自分の運命を思うと)ただ何となく、涙が落ちて流れるのだ)
と詠み終わる声も絶えないうちに、矢が、当たって、倒れ伏してしまった。武士は、これを見て、心の中で、「不思議なことだ。畜生ではあるが、歌を詠み、自分の命の終わりを知っているのか」と、しみじみと感じて、すぐに、涙を流した。
さて、家に帰って、弓矢を折り捨て、出家して仏道に入り、(鹿の)菩提を弔ったということだ。和歌の持つ力は、これほど素晴らしいものである。
【覚えておきたい知識】
文学史・古文常識:
- 作品:『沙石集(しゃせきしゅう)』は、鎌倉時代中期に、僧侶・無住一円(むじゅういちえん)によって編纂された仏教説話集。仏の教えを、時にユーモラスに、分かりやすい逸話を通して人々に広めることを目的としている。
- 歌の徳(ちから):和歌には、人の心だけでなく、時には動物や鬼神、天地さえも動かす、不思議な力(歌徳)があると、古くから信じられてきた。『古今和歌集 仮名序』にもその思想が見られる。この話は、その歌徳を分かりやすく示す一例。
重要古語:
- 年ごろ(年比):長年、数年来。
- 殺生(せっしょう):生き物を殺すこと。仏教では重い罪とされる。
- 顧みる(かえりみる):後ろを振り返って見る。
- 朗々(らうらう):声が清らかで、よく通るさま。
- 畜生(ちくしょう):鳥獣の総称。人間以外の動物。
- あはれに覚ゆ:しみじみと感じる、心打たれる。
- 出家入道(しゅっけにゅうどう):俗世を捨てて、仏道に入ること。
- 菩提を弔ふ(ぼだいを弔ふ):亡くなった者が成仏できるように祈ること。
【設問】
【問1】長年殺生を好んできた武士の心を変化させた、直接的なきっかけは何か。最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 鹿が、自分を射ようとする武士から目をそらさなかったこと。
- 鹿が、死を目前にして、涙を流したこと。
- 人語を解さないはずの鹿が、見事な和歌を詠んだこと。
- 鹿を射殺したことに対して、強い罪悪感を覚えたこと。
- 鹿の断末魔の叫び声が、人の声のように聞こえたこと。
【問1 正解と解説】
正解:3
武士は、鹿が涙を流すのを見ただけでは矢を放っています。彼が衝撃を受けたのは、その後の出来事です。武士の心中の言葉「不思議の事なり。畜生なれども、歌を詠み、命の終わりを知るか」からわかるように、彼を動かしたのは、動物であるはずの鹿が、人間と同じように和歌を詠むという、常識を超えた出来事でした。この不思議な現象によって、彼は、鹿にも人間と同じ心があることを悟り、自らの殺生を悔い改めるに至ります。
【問2】鹿が詠んだ歌「あはれとも…」は、どのような心情を表現しているか。最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 武士への恨み:自分を殺す非情な武士を、心から憎んでいるという気持ち。
- 自己への憐憫:これから死ぬしかない自分の運命を、ただ悲しく思っているという気持ち。
- 武士への同情:殺生を重ねる武士の来世を、哀れに思っているという気持ち。
- 無心の境地:生への執着を捨て、武士も自分も、ただ自然の摂理に従っているだけだという悟り。
- 命乞い:涙を見せることで、武士の同情を引いて、命を助けてもらおうという計算。
【問2 正解と解説】
正解:2
この歌は、「(あなたを)かわいそうだ思う心はないけれど」と、まず相手(武士)への感情ではないことを断っています。その上で、「ただ何となく涙が落ちる」と続けています。これは、特定の誰かを恨んだり、同情したりするのではなく、ただただ、今まさに絶えようとしている自らの命運を思い、自然と涙がこぼれ落ちるという、純粋な自己への憐憫、つまり悲しみの情を詠んだものと解釈するのが最も自然です。
【問3】この説話の結び「歌の徳、かばかりなり」は、物語全体を通じて何を伝えようとしているか。
- 和歌の力は、人の心を癒し、穏やかにする効果があるということ。
- 和歌を詠むことで、人間だけでなく、動物でさえも成仏できるということ。
- 和歌という優れた文化は、身分や種族を超えて、すべての者に感動を与えるということ。
- 和歌には、人の心を根底から変え、悪人をも仏道へと導くほどの絶大な力があるということ。
- 和歌の道をきわめれば、動物の言葉さえも理解できるようになるということ。
【問3 正解と解説】
正解:4
この物語は、単に「歌は素晴らしい」と述べているだけではありません。「年ごろ殺生を好み」ためらいもなく鹿を射殺した武士、つまり仏教的に見れば「悪人」が、鹿の詠んだ一首の歌に心打たれた結果、「弓矢を折り捨て、出家入道」するに至ります。このように、人の生き方そのものを180度転換させ、殺生を好む悪人をも仏の道へと導いてしまうほどの、劇的で、絶大な感化力こそが、この物語が示そうとしている「歌の徳(力)」なのです。