古文対策問題 039(一休宗純歌「門松は」)
【本文】
(室町時代の禅僧、一休宗純が、正月の朝、杖の先に髑髏(どくろ)を付けて、家々の門をまわり、こう唱えたと伝えられる。)
門松は 冥土の旅の 一里塚
めでたくもあり めでたくもなし
【現代語訳】
(室町時代の禅僧、一休宗純が、正月の朝、杖の先に髑髏(どくろ)を付けて、家々の門をまわり、こう唱えたと伝えられる。)
(家々の門に飾られた)門松は、(死後の世界である)冥土へと向かう旅の一里塚(=マイルストーン)のようなものだ。(年が明けたことは)めでたいことでもあり、また、(死に一歩近づいたという意味では)めでたいことでもない。
【覚えておきたい知識】
文学史・古文常識:
- 作者:一休宗純(いっきゅうそうじゅん)。室町時代中期の臨済宗の僧侶。後小松天皇の皇子ともされる。奇行や風刺に富んだ言動で知られ、多くの逸話や、漢詩、和歌(道歌)を残した。
- ジャンル:この歌は、仏教的な教えを分かりやすく詠んだ道歌(どうか)、あるいは、常識をひっくり返すような風刺的な狂歌(きょうか)に分類される。
- 背景思想(禅):禅宗は、経典の学習よりも、座禅による自己の内面との対峙を重んじる。生と死を不可分なものとして捉え、人間が目を背けがちな「死」を直視することで、真の「生」を悟ろうとする。この歌は、そうした禅的な死生観を端的に示している。
重要古語・語句:
- 門松(かどまつ):正月に、家の門の前に飾る松。年神様を迎えるための依り代(よりしろ)。長寿の象徴でもあり、めでたいものの代表。
- 冥土(めいど):死者が行くとされる、暗闇の世界。黄泉路(よみじ)。
- 一里塚(いちりづか):街道の一里(約4km)ごとに、距離を示すために築かれた塚。旅の進行度を示す目印。
- めでたくもありめでたくもなし:めでたい面もあり、めでたくない面もある。矛盾した二つの側面を同時に肯定する表現。
【設問】
【問1】一休は、めでたいものの象徴である「門松」を、何にたとえているか。本文中から、七字で抜き出して答えよ。
- 冥土の旅
- 一里塚
- 旅の一里塚
- 冥土の一里塚
- 冥土の旅の一里塚
【問1 正解と解説】
正解:5
歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を正しく理解する問題です。上の句は「門松は/冥土の旅の/一里塚」となっており、「門松」が「冥土の旅の一里塚」というものにたとえられています。したがって、本文中からそのまま七字を抜き出すと「冥土の旅の一里塚」となります。
【問2】この歌の結びである「めでたくもあり めでたくもなし」という逆説的な表現について、それぞれの理由の説明として最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- めでたい理由:無事に新年を迎えられたから。/めでたくない理由:また一つ歳をとり、死に近づいたから。
- めでたい理由:美しい門松が飾られているから。/めでたくない理由:やがて正月が終わり、片付けねばならないから。
- めでたい理由:多くの人々が祝っているから。/めでたくない理由:自分だけが孤独で、祝う気持ちになれないから。
- めでたい理由:神様が家にやって来るから。/めでたくない理由:冥土の使いも一緒にやって来るから。
- めでたい理由:旅の目印が見つかったから。/めでたくない理由:その旅が、死への旅だから。
【問2 正解と解説】
正解:1
この歌の逆説を解く鍵は、二つの異なる視点の存在を理解することです。「めでたい」というのは、無事に一年を過ごし、新しい年を迎えられたことへの、世間一般の常識的な喜びの視点です。一方で、「めでたくない」というのは、人生を「死(冥土)」へと向かう「旅」と捉える、禅的な視点です。この視点に立てば、新年を迎えることは、ゴールである死に、また一歩(一里塚ぶん)近づいたことを意味するため、手放しで喜ぶべきことではない、ということになります。
【問3】一休が、あえて正月のめでたい朝に、この歌を杖先の髑髏と共に披露して回った、その真意として最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 人々の祝い事に水を差し、困らせることを楽しむ、いたずら好きな性格の表れ。
- 自分だけが悟りの境地にいることを、凡人たちに見せつけようとする、傲慢さの表れ。
- 人々の正月気分を台無しにすることで、幕府の政策に抗議しようとする、政治的な意思表示。
- 浮かれて新年を祝う人々に、「死」という避けられない現実を直視させ、生きることの真の意味を問い直させようとする、禅僧としての警鐘。
- 死者の霊も、正月の祝いの輪に加えてあげるべきだという、死者への深い同情と供養の気持ちの表れ。
【問3 正解と解説】
正解:4
一休の行動は、単なる奇行やいたずらではありません。禅僧としての、一種の「ショック療法」です。人々が浮かれ、生のことばかりを考えている正月の朝に、あえて、誰もが目を背けたい「死」の象徴である髑髏と、死を詠んだ歌を突きつける。この強烈な揺さぶりによって、人々の表面的なお祝い気分を打ち破り、「死を意識してこそ、今この瞬間を真に生きることができる」という、禅の根本的な教えを、頭ではなく体で理解させようとしたのです。これは、人々への深い慈悲から来る、痛烈な警鐘と言えます。