古文対策問題 035(風姿花伝「秘すれば花」)
【本文】
問ひて云はく、年来、工夫を尽くし、様々の能をなし尽くして、身に秘めたる事なくば、はや、見尽くされて、後の為、あるべからず。いかゞすべきや。
答へて云はく、申す条、尤も然るべし。さりながら、この道の極意、ここにあるべきなり。抑も、年来の工夫を、人に見せ尽くさば、はや、珍しき感、あるべからず。観客の心に、あなづる心、出で来るなり。
されば、鬼の能とても、たやすく、その様を見すれば、はや、恐ろしき心も薄く、面白き感もなし。一度、鬼の出でて、動かぬやうに見え、しづまりたる所に、思ひも寄らぬ働きをすれば、観客、驚き、肝を消す。これ、珍しさより出で来る感なり。
すなはち、能をば、心に発し、手を以て舞ひ、足にて踏むなり。この三つのほか、また、奥にあるべし。かやうに、様々の物まねを演じ尽くす手立てのうちに、なほ、秘する所あるが故に、面白きなり。
しかれば、秘すれば花なり。秘せずは、花なるべからず、と知るべし。
【現代語訳】
(弟子が)質問して言うには、「長年、工夫を重ねて、様々な能を演じ尽くして、自分の中に秘密にしていることがなくなってしまえば、もはや、(芸を)見尽くされてしまって、将来のためにならないでしょう。どうすべきでしょうか」と。
(私が)答えて言うには、「おっしゃる点は、もっともなことです。しかしながら、この能楽の道の極意は、まさにここにあるのです。そもそも、長年の工夫の成果を、人に見せ尽くしてしまえば、もはや、目新しいという感動はなくなるでしょう。観客の心に、(芸を)見くびる気持ちが、生まれてくるのです。
ですから、例えば鬼の能であっても、たやすく、その(恐ろしい)様子を見せてしまえば、もはや、恐ろしいという気持ちも薄れ、面白いという感動もありません。一度、鬼が出てきて、動かないかのように見え、静まっている所に、(観客が)思いもよらない動きをすれば、観客は、驚き、肝を冷やすのです。これが、目新しさから生まれてくる感動なのです。
すなわち、能というものは、心で発想し、手で舞い、足で地を踏むものです。この三つの働きのほか、さらに、奥にあるもの(=秘めた芸)があるべきです。このように、様々な物真似を演じ尽くす技術の中に、それでもなお、秘密にする所があるからこそ、面白いのです。
したがって、『秘めるからこそ、花になる。秘めなければ、花にはなり得ない』と、知るべきです」と。
【覚えておきたい知識】
文学史・古文常識:
- 作者:世阿弥元清(ぜあみもときよ)。室町時代前期の能役者、能作者。父・観阿弥と共に、能楽を大成させた。
- 作品:『風姿花伝(ふうしかでん)』(または『花伝書』)は、世阿弥が父の教えを基に、自身の芸論を書き記した、日本最古の体系的な演劇論書。
- 花(はな):世阿弥の芸論の中心概念。単なる美しさではなく、観客を魅了する、新鮮な驚きや感動のことを指す。若い役者が持つ一時的な「時分の花」と、修行によって得られる生涯続く「まことの花」があると説いた。
重要古語:
- 年来(ねんらい):長年、年来。
- 見尽くす:すっかり見てしまう、見飽きてしまう。
- 条(じょう):事柄、点。
- 抑も(そもそも):そもそも、いったい。
- あなづる(侮る):見くびる、軽蔑する。
- 肝を消す:非常に驚く、肝を冷やす。
- 手立て(てだて):方法、手段。
- 秘すれば花なり:秘密にするからこそ、そこに「花」(=魅力、感動)が生まれるのだ、という世阿弥の有名な言葉。
【設問】
【問1】弟子が「後の為、あるべからず(将来のためにならない)」と心配しているのは、どのような事態か。最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 自分の芸をすべて見せてしまうと、弟子に真似されて、自分の地位が脅かされる事態。
- 自分の芸をすべて見せてしまうと、観客が飽きてしまい、役者として先がなくなる事態。
- 自分の芸をすべて見せてしまうと、新たな工夫をする意欲がなくなり、成長が止まる事態。
- 自分の芸をすべて見せてしまうと、体力を消耗し、年をとってから演じられなくなる事態。
- 自分の芸をすべて見せてしまうと、幕府から、これ以上の芸はないと判断されて、禄を失う事態。
【問1 正解と解説】
正解:2
弟子の心配は、「見尽くされて」しまうこと、つまり、観客に「もうこの役者の芸はすべて見てしまった」と思われてしまうことです。そうなれば、世阿弥が答えているように、観客は「珍しき感」を失い、「あなづる心」を抱くようになります。観客からの感動と尊敬を失うことは、役者にとって致命的であり、将来の活躍(後の為)が望めなくなる、ということを心配しているのです。
【問2】世阿弥が「鬼の能」を例に挙げて説明していることは何か。最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 観客の予想を裏切る意外な動きこそが、感動(花)を生み出す源泉であるということ。
- 鬼の能は、役者の肉体的な力強さが最も重要であるということ。
- 観客を本当に怖がらせるためには、最初から最後まで恐ろしい姿を見せ続けるべきであるということ。
- 鬼の面(おもて)の出来不出来が、能の成否を大きく左右するということ。
- 静かな動きと激しい動きを交互に行うことが、能の基本的な構成であるということ。
【問2 正解と解説】
正解:1
世阿弥は、鬼がただ恐ろしい姿を見せるだけでは、観客はすぐに見慣れてしまい、感動は薄れると指摘します。そして、「動かぬやうに見え、しづまりたる所」から「思ひも寄らぬ働きをする」ことで、観客は「驚き、肝を消す」と述べています。これは、観客の「こう動くだろう」という予想を、良い意味で裏切ること、つまり「意外性」や「サプライズ」こそが、新鮮な感動(=珍しさより出で来る感=花)を生み出すのだ、ということを、具体的な例で示しているのです。
【問3】筆者が最終的に示す「秘すれば花なり」という極意は、役者に対して何を最も重要だと教えているか。
- 常に新しい芸を開発し続け、観客を飽きさせないようにする、創造力。
- 自分の持っている技術や能力のすべてを一度に見せるのではなく、効果的に隠し、管理する、戦略的な思考。
- 観客の反応を一切気にせず、自分の信じる芸をただひたすらに追求する、孤高の精神。
- 師から教わった秘密の型を、決して他人に漏らさずに、一族の中だけで守り抜く、忠誠心。
- 自分の芸がいかに素晴らしいものであるかを、言葉で観客に説明できる、知性。
【問3 正解と解説】
正解:2
この極意の核心は、単に「秘密を持て」ということではありません。観客の心理を深く理解した上で、自分の持つ手札(=芸)を、いつ、どこで、どのように見せる(あるいは見せない)かを、冷静に判断・管理する能力を求めています。つまり、自分の芸を客観的に見つめ、その効果が最大になるように演出する「プロデュース能力」や「戦略的思考」こそが、真の「花」を咲かせ続けるために不可欠である、と教えているのです。