古文対策問題 032(雨月物語「菊花の約」)
【本文】
(病から回復した赤穴宗右衛門は、介抱してくれた丈部左門に、菊の節句(九月九日)に必ず再会すると約束して、故郷へ帰った。左門は、約束の日、母と共に宗右衛門の帰りを待っている。)
母、「はや、夜も更けぬ。九日は、はや過ぎぬ。かの人は、都にて、障る事やあるらむ。また、道の中より、便りもやあるべきに、無きこそ、心もとなけれ。」と言ふ。左門、「宗右衛門は、偽りたまふ人にあらず。かならず、来たまふべし。」と言ひて、なほ待つに、夜半ばかり、月、朧に、風、すごく吹き来たりて、庭の前の柳の木陰より、人影、やうやう、現れ出づる。
左門、走り寄りて見るに、赤穴宗右衛門なり。左門、悦びて、「やや、待ちかねて候ふぞ。母上も、待ちわび給ふ。とく、とく、内に。」と言へば、宗右衛門は、ほほゑみて、答へず。左門、手を以て、これを引くに、影ばかりにて、体なし。
宗右衛門が曰く、「われは、はや、この世の人にあらず。幽明、境を隔てて、しばし、ここにあり。君、われを疑ひたまふな。…(中略)…われ、自ら、わが命を断ちて、魂となりて、一日に千里を来る。君、今日の会を楽しむべし。骸は、はや、故郷の土となれりとも、魂は、君が恩を忘れじ。」と言ひ終はりて、姿、かき消すやうに、見えずなりぬ。
【現代語訳】
(病から回復した赤穴宗右衛門は、介抱してくれた丈部左門に、菊の節句(九月九日)に必ず再会すると約束して、故郷へ帰った。左門は、約束の日、母と共に宗右衛門の帰りを待っている。)
母が、「もう、夜も更けてしまいました。九日は、もう過ぎてしまいましたよ。あの人は、都で、差し支えることがあったのでしょうか。また、道の途中から、便りぐらいあってもよさそうなのに、それがないのは、気がかりですね」と言う。左門は、「宗右衛門は、嘘をおつきになる人ではない。必ず、お越しになるはずだ」と言って、なおも待っていると、夜中頃になって、月はおぼろで、風がもの寂しく吹いてきて、庭の前の柳の木陰から、人影が、だんだんと、現れ出た。
左門が、走り寄って見ると、赤穴宗右衛門である。左門は、喜んで、「おお、待ちかねておりましたぞ。母上も、待ちわびていらっしゃいます。さあ早く、早く、家の中へ」と言うと、宗右衛門は、ほほえむだけで、答えない。左門が、手で、これを引こうとすると、影だけで、実体がない。
宗右衛門が言うには、「私は、もはや、この世の者ではない。死後の世界とこの世とが、境界を隔てて、しばらくの間、ここにいるのだ。君よ、私を疑いなさるな。…(中略)…私は、自ら、自分の命を絶って、魂となって、一日に千里の道をやって来た。君よ、今日の再会を楽しんでくれ。肉体は、もはや、故郷の土となっているだろうとも、魂は、君の恩を忘れないだろう」と言い終わると、姿は、かき消すように、見えなくなってしまった。
【覚えておきたい知識】
文学史・古文常識:
- 作者:上田秋成(うえだあきなり)。江戸時代後期の国学者、歌人、小説家。
- 作品:『雨月物語(うげつものがたり)』は、秋成の代表作で、和漢の古典から着想を得た九編の怪異譚を収めた読本(よみほん)。
- 読本(よみほん):江戸時代後期の小説ジャンルの一つ。歴史や伝説に取材し、勧善懲悪や因果応報をテーマとすることが多い。文章は、雅文体や漢文訓読体を基調とした擬古文で書かれ、挿絵と共に楽しまれた。
- 菊花の約(きっかのちぎり):「刎頸の交わり(ふんけいのまじわり=親友のためなら首をはねられても悔いはないほどの、固い友情)」の故事に基づく、男同士の信義をテーマとした物語。
重要古語・語句:
- 障る事(さわること):差し支え、妨げ。
- 便り(たより):手紙、連絡。
- 心もとなし:気がかりだ、不安だ。
- 偽る(いつわる):嘘をつく。
- 夜半(よは):夜中、真夜中。
- 幽明(ゆうめい):死者の世界(幽)と生者の世界(明)。
- 骸(むくろ):死体、亡骸。
【設問】
【問1】約束の日が過ぎても帰らない宗右衛門に対し、左門が「偽りたまふ人にあらず。かならず、来たまふべし」と信じ続けた根拠は何か。最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 宗右衛門が残していった、多額の礼金。
- 宗右衛門の人格と、武士の約束(信義)に対する、絶対的な信頼。
- いつか必ず戻るという内容の、宗右衛門からの手紙。
- もし約束が破られれば、宗右衛門の一族が不幸になるという、神仏への誓い。
- 宗右衛門の母親も、左門の家で息子の帰りを待っていたという事実。
【問1 正解と解説】
正解:2
この物語の核心は、「信(しん)」という儒教的な徳目にあります。左門の信念は、物理的な証拠や担保に基づくものではありません。彼は、共に過ごした日々の中で、宗右衛門が「偽りを言うような人物ではない」という、その人格そのものを深く信頼しています。武士や信義を重んじる人間にとって、「約束」は命よりも重い。だからこそ、何の連絡がなくても、左門は「必ず来るはずだ」と信じ続けることができたのです。
【問2】宗右衛門は、約束を果たすために「自ら、わが命を断ちて、魂となりて」やってきた。この常軌を逸した行動が、この物語において何を最も強く示しているか。
- 死ねば、千里の道も一瞬で移動できるという、当時の人々の死生観。
- 約束を守るという信義は、自らの命よりも重いという、絶対的な価値観。
- 死んで魂にならなければ、友に会うこともできないという、封建社会の不自由さ。
- 友に会いたいという強い情念が、無意識のうちに生霊を飛ばさせたという、超常現象。
- 命を絶ってでも約束を果たした自分を、友人や後世の人々に称賛してほしいという、名誉欲。
【問2 正解と解説】
正解:2
宗右衛門は、監禁されて物理的に約束の場所へ行くことが不可能になりました。彼にとって、その状況で約束の九月九日をやり過ごすことは、「信義にもとる」最大の恥辱でした。そこで彼は、「肉体が邪魔なら、魂となって行けばよい」という、常人には思いもよらない、しかし彼にとっては唯一の論理的な選択をします。これは、友情の証である「約束」を守るという「信義」が、自分自身の「命」という、本来最も大切なはずのものさえも超越する、絶対的な価値であることを、最も劇的な形で示しています。
【問3】この物語は、幽霊が登場する「怪異譚」の形式をとっている。その形式が、物語のテーマを伝える上で、どのような効果をもたらしているか。最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 幽霊の登場によって、読者の恐怖心を煽り、物語の娯楽性を高めている。
- 約束を破れば幽霊になってでも果たさねばならない、という教訓を分かりやすく示している。
- 人間には不可能なことを幽霊にさせることで、「友情の誓い」という抽象的な概念の絶対的な強さを、具体的に描いている。
- 幽霊の世界の存在を証明することで、読者に仏教的な死生観を教え諭している。
- 幽霊という非現実的な存在を登場させることで、物語全体が作り話であることを示している。
【問3 正解と解説】
正解:3
この物語の目的は、単に怖い話をすることではありません。「友情の誓い」や「信義」といった、目には見えない抽象的な徳目が、どれほど強く、尊いものであるかを、読者に伝えることです。そのために、作者は「幽霊となって千里の道を一瞬で移動する」という、超常的な現象を物語に導入しました。人間には不可能なこの行為を、幽霊となった宗右衛門が成し遂げることで、「友情の誓いは、物理的な法則や、生死の境さえも超える力を持つ」という、抽象的なテーマが、読者にとって忘れがたい、具体的なイメージとして強く印象づけられるのです。