古文対策問題 029(狂言『附子』)
【本文】
(主人が、家来の太郎冠者と次郎冠者を呼びつける)
主人:やや、太郎冠者、次郎冠者、二人ともこれへ来たか。
太郎冠者:ははっ、御前に。
主人:さて、両人にあるじが申す事を聞け。わしは、ただ今、よそへ参る。この桶の中には、附子と申す、世の中にかけがいのない毒が入れてある。この方へ、くれぐれも、近寄るまいぞ。風にあたっても、命がない物じゃ。よう存知せい。
次郎冠者:承って候ふ。
主人:では、きっと、言ひ付けたぞよ。(と言って、出かける)
太郎冠者:やれやれ、主は、お出かけなさった。さて、次郎冠者、聞け。先ほど、主が、この桶の中には附子という、風にあたっても命がない毒だ、とおっしゃったが、わしは、あの附子を一目見たいものだと思う。
次郎冠者:いや、私も見たいと思います。しかし、近寄るな、とおっしゃいました。
太郎冠者:なに、近寄るなと言っても、ちと見申そう。おい、次郎冠者、扇を以て、かしこから、こちらへ向けて、扇いでくれ。風がこちらへ来ぬように。
次郎冠者:心得て候ふ。(扇ぎ始める)
太郎冠者:よう扇げ、よう扇げ。(そろそろと桶に近づき、中をのぞき込む)
【現代語訳】
(主人が、家来の太郎冠者と次郎冠者を呼びつける)
主人:おい、太郎冠者、次郎冠者、二人ともここへ来たか。
太郎冠者:はい、お呼びでしょうか。
主人:さて、二人に私が言うことを聞け。私は、今から、他所へ参る。この桶の中には、附子(ぶす)という、世の中にまたとない大変な毒が入れてある。この方へ、くれぐれも、近寄るなよ。風に当たっただけでも、命がない物だ。よく覚えておけ。
次郎冠者:承知いたしました。
主人:では、確かに、言いつけたぞ。(と言って、出かける)
太郎冠者:やれやれ、ご主人は、お出かけになった。さて、次郎冠者、聞け。先ほど、ご主人が、この桶の中には附子という、風に当たっても命がない毒だ、とおっしゃったが、俺は、あの附子を一目見てみたいものだと思う。
次郎冠者:いや、私も見たいと思います。しかし、近寄るな、とおっしゃいました。
太郎冠者:なに、近寄るなと言っても、ちょっと見てみよう。おい、次郎冠者、扇で、あちらから、こちらへ向けて、扇いでくれ。風がこっちへ来ないように。
次郎冠者:承知いたしました。(扇ぎ始める)
太郎冠者:よく扇げ、よく扇げ。(そろそろと桶に近づき、中をのぞき込む)
【覚えておきたい知識】
文学史・古文常識:
- ジャンル:狂言(きょうげん)は、室町時代に能楽と共に成立した日本の伝統的な喜劇。能が悲劇的・幻想的な題材を扱うのに対し、狂言は現実的な世界を舞台に、人間の普遍的な可笑しみを、対話を中心に描く。
- 登場人物:
- 主人(しゅうと):多くは愚かで、見栄っ張りな人物として描かれ、家来にやりこめられる。
- 太郎冠者(たろうかじゃ):家来の代表的な役名。ずる賢く、機転が利くこともあれば、主人と一緒になって失敗することもある。狂言回し(=物語の中心)となることが多い。
- 附子(ぶす):トリカブトの根から作る猛毒。しかし、この劇中では、当時貴重品であった「砂糖(黒砂糖)」のこと。主人は、家来に盗み食いされないよう、毒だと嘘をついた。
重要古語・語句:
- 御前に(おんまえに):お呼びでしょうか。高貴な人の前、の意から転じた応答の言葉。
- かけがいのない:またとない、比類のない。ここでは「大変な、とんでもない」という強調。
- よう存知せい(ようぞんじせい):よく覚えておけ。
- ちと:少し、ちょっと。
- かしこ:あそこ、あちら。
- 心得て候ふ(こころえてそうろう):承知いたしました。
【設問】
【問1】主人が、桶の中身を「附子」という猛毒だと嘘をついてまで、家来たちを近寄らせまいとした、その本当の理由として最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 家来たちの度胸を試すために、わざと危険な状況を設定したかったから。
- 家来たちが本当に自分の言うことを聞くかどうか、忠誠心を試したかったから。
- 桶の中に入っている貴重な砂糖を、家来たちに盗み食いされたくなかったから。
- 家来たちがあまりに怠け者なので、少し怖がらせて懲らしめてやろうと思ったから。
- 桶の中身が何か、自分でもよくわかっていなかったから。
【問1 正解と解説】
正解:3
狂言の基本的な構造として、主人は家来を信用しておらず、何かしらの「ずる」をします。この劇の核心は、桶の中身が猛毒の「附子」ではなく、当時非常に貴重だった「砂糖」であるという点にあります。主人は、自分が留守の間に、食い意地の張った家来たちに大切な砂糖を食べられてしまうことを恐れ、「風に当たっただけでも死ぬ」という大げさな嘘をついて、彼らを遠ざけようとしたのです。
【問2】主人の「風にあたっても、命がない」という厳しい警告にもかかわらず、太郎冠者と次郎冠者が「附子」に興味を抱き、近づこうとしたのはなぜか。その心理として最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 主人の命令に反抗することで、自分たちの勇気を示したいという反発心から。
- 「してはいけない」と強く言われると、かえって好奇心が刺激されて、中身が気になってしまったから。
- 主人が嘘をついていることを見抜き、その嘘を暴いてやろうという企みから。
- 猛毒である附子を、薬としてこっそり売ってお金儲けをしようと考えたから。
- 主人の言いつけをすぐに忘れてしまう、注意力が散漫な性格だから。
【問2 正解と解説】
正解:2
これは、人間の普遍的な心理を描いたものです。「見るな」と言われると見たくなる、「するな」と言われるとしたくなる、という心理(心理的リアクタンス)が働いています。主人の警告が「風に当たっただけでも死ぬ」とあまりに大げさだったために、かえって「一体どんなものなのだろう」という好奇心を強くかき立てられる結果となりました。この、禁止されるとかえって興味が湧くという、人間の可笑しみが、この劇の笑いの出発点です。
【問3】太郎冠者が、次郎冠者に「扇を以て、かしこから、こちらへ向けて、扇いでくれ」と指示する。この行動が、観客にとって滑稽に見えるのはなぜか。最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 猛毒に対して、扇の風というあまりに無力な対策で臨もうとしているから。
- 本当は怖くないのに、わざと怖がっているふりをして、次郎冠者をからかっているから。
- 主人の言いつけを破るという大胆な行動と、風を気にするという小心な行動が、矛盾していて可笑しいから。
- 自分は安全な場所にいようとして、危険な役目をすべて次郎冠者に押し付けているから。
- 扇の使い方を間違えており、かえって風を自分の方へ送ってしまっているから。
【問3 正解と解説】
正解:3
この行動の可笑しみは、「矛盾」にあります。太郎冠者は、主人の「近寄るな」という命令を破るという、非常に大胆な行動に出ています。しかしその一方で、「風に当たっても死ぬ」という警告は信じ込んでいるため、「風が来ないように扇げ」という、極度に用心深い、小心な対策を取ろうとします。この「大胆さ」と「小心さ」が同居した、ちぐはぐで、いかにも人間らしい滑稽な行動が、観客の笑いを誘うのです。