古文対策問題 021(歎異抄「悪人正機」)
【本文】
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを、世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや。」この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力にて善を修する人は、ひとへに他力をたのむ心かけたるによりて、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力の心をひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。
煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて、「善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と、仰せ候ひき。
【現代語訳】
善人ですら、なお往生を遂げるのだ。ましてや悪人が往生できないことがあろうか(いや、悪人こそが往生できるのだ)。
ところが、世間の人はいつもこう言う、「悪人ですら往生するのだ。ましてや善人が往生できないはずがない」と。この考えは、一見するともっともらしいようだが、(阿弥陀仏の)本願である他力の趣旨には背いている。
その理由は、自力で善行を積む人は、ひとえに他力(=阿弥陀仏の力)を頼る心が欠けていることによって、阿弥陀仏の本願の対象ではないのだ。しかしながら、その自力の心を翻して、他力におすがりすれば、真実の報土への往生を遂げることができるのである。
煩悩を完全に備えている我々のような者は、どのような修行によっても、迷いの世界(生死)から離れることはできないはずである。そんな我々を阿弥陀仏が哀れに思われて、誓願をおこしになられた、その本来の目的は、悪人を成仏させるためなのだから、他力におすがりする悪人こそが、本来、往生の真の中心的な要因なのである。だからこそ、(親鸞聖人は)「善人でさえ往生するのだから、ましてや悪人は(なおさらだ)」と、おっしゃったのでした。
【覚えておきたい知識】
文学史・古文常識:
- 作品:『歎異抄(たんにしょう)』は鎌倉時代後期の仏教書。浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)の死後、その教えに異説が現れたことを嘆いた弟子の唯円(ゆいえん)が、師から直接聞いた言葉を記録したものとされる。
- 悪人正機(あくにんしょうき):本文で述べられている中心思想。煩悩から逃れられない「悪人」こそが、阿弥陀仏の救いの主要な対象である、という逆説的な教え。
- 自力と他力:
- 自力(じりき):自分自身の力(修行や善行)によって悟りを開こうとすること。
- 他力(たりき):自分自身の力をあきらめ、すべてを阿弥陀仏の誓願(本願)の力に任せること。浄土真宗では、この他力への絶対的な帰依を説く。
重要古語:
- なほ~もて(なほもて):それでもなお、~ですら。
- いはんや~をや:ましてや~はなおさらだ。反語の形をとり、強い肯定を表す。
- 意趣(いしゅ):意向、趣旨。
- ひるがへす:考えや態度をがらりと変える、翻す。
- 煩悩具足(ぼんのうぐそく):人間は、あらゆる煩悩を完全に備えた存在である、ということ。
- 正因(しょういん):最も中心的で、直接的な原因。
【設問】
【問1】筆者は、世間一般の考え方(悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや)を「本願他力の意趣にそむけり」と批判している。世間の考え方は、なぜ他力の趣旨に反するのか。最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 善人よりも悪人を優先するのは、不公平だと考えているから。
- 善行を積むことこそが往生の唯一の道だと信じ、阿弥陀仏の力を軽視しているから。
- 善人が悪人よりも救われやすいのは当然だと考え、自らの善行を救いの頼みとしているから。
- 悪人が救われるはずがないと考え、阿弥陀仏の救済能力を疑っているから。
- 他力本願とは、何もしなくても助かるという、都合の良い考え方だと誤解しているから。
【問1 正解と解説】
正解:3
世間一般の考えは、「良い行いをした善人の方が、悪いことをした悪人より往生しやすいのは当たり前だ」というものです。この考えの根底には、「自分が行った善行」が、救われるための「資格」や「条件」になるという発想があります。これは、自分の力を頼みとする「自力」の考え方です。親鸞の説く「他力」とは、自分の力(善悪)を一切頼みとせず、ただ阿弥陀-陀仏の力にすがることを指すため、自らの善行を頼みとする世間の考えは、他力の趣旨に反するのです。
【問2】本文によれば、阿弥陀仏が誓願をおこした「本意(ほんい)」、つまり本来の目的は何だとされているか。最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 自らの力で善行を積むことができない、罪深い悪人を救済すること。
- 善人も悪人も区別なく、すべての人々を平等に救済すること。
- 善行を積んだ善人を、他の者たちよりも優先して極楽浄土へ導くこと。
- 厳しい修行に耐えた者だけに、特別な救いの手を差し伸べること。
- この世から悪人を一人もいなくし、善人だけの理想郷を築くこと。
【問2 正解と解説】
正解:1
本文中にはっきりと「願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば」と書かれています。親鸞の思想では、人間は誰もが「煩悩具足」の存在であり、自力で悟りを開くことは不可能です。善人ですら、その善は不徹底なものに過ぎない。だからこそ、そのような自力ではどうにもならない存在、特にそのことを自覚している「悪人」をこそ、阿弥陀仏は本来の救済の対象として誓願を立てたのだ、とされています。
【問3】この文章全体が示す「悪人正機」の思想を、最も的確に要約しているものはどれか。次の中から一つ選べ。
- 悪事を働いても構わないという、道徳を否定する危険な思想。
- 自らの善行を誇る「善人」よりも、自らの無力さを知り、ただ仏の力にすがる「悪人」こそが、かえって救いの中心であるという逆説の思想。
- 善人であろうと悪人であろうと、最終的にはすべての人が救われるのだから、善悪にこだわる必要はないという思想。
- 悪人として生まれた者も、善行を積み重ねて善人になることで、初めて救われるのだという思想。
- 仏の救いは、善人には自動的に与えられ、悪人には特別な条件付きで与えられるのだという思想。
【問3 正解と解説】
正解:2
「悪人正機」の核心は、「悪事を推奨する」ことでは全くありません。むしろ、自らの力や善行に頼る「自力」の心を捨て、完全に阿弥陀仏の「他力」に帰依することの重要性を説くための論法です。「善人」は、無意識のうちに自分の善行を頼りにしてしまいがちで、それが他力への絶対的な信頼を妨げる。一方、「悪人」は、自分には頼るべき善行がないことを痛感しているため、ただひたすらに他力にすがるしかない。その純粋な信心のゆえに、かえって救いの本質に近い、という逆説的な論理です。この「逆説」の構造を捉えている選択肢2が最も的確な要約です。