108(『史記』陳渉世家 より 燕雀鴻鵠)
本文
陳渉、少時、嘗与人傭耕。輟耕之壟上、(1)悵恨久之、曰、「苟富貴、無相忘。」傭者笑而応曰、「若為庸耕、何富貴也。」陳渉太息曰、「(2)嗟乎、燕雀安知鴻鵠之志哉。」
【書き下し文】
陳渉(ちんしょう)、少(わか)き時、嘗(かつ)て人と与(とも)に傭耕(ようこう)す。耕すを輟(や)めて壟上(ろうじょう)に之(ゆ)き、(1)悵恨(ちょうこん)すること之を久しくして、曰く、「苟(いやしく)も富貴(ふうき)と為(な)らば、相(あひ)忘るること無からん。」と。傭者(ようしゃ)笑ひて応(こた)へて曰く、「若(なんぢ)は庸耕たり、何ぞ富貴とならんや。」と。陳渉、太息(たいそく)して曰く、「(2)嗟乎(ああ)、燕雀(えんじゃく)安(いづ)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志(こころざし)を知らんや。」と。
【現代語訳】
【設問】
問1 傍線部(1)「悵恨久之」とあるが、この時の陳渉は、何に対して「悵恨(不満に思い、残念がる)」の念を抱いているのか。最も適当なものを次から選べ。
- 自分に偉大な才能があるにもかかわらず、今はしがない農夫として働いている、その不遇な境遇に対して。
- 共に働く仲間たちが、自分と同じような向上心を持っていない、その意識の低さに対して。
- 農作業という、自分の才能とは全く関係のない、退屈な仕事に対して。
- 過酷な労働を強いて、正当な対価を支払わない、雇い主に対して。
【解答・解説】
正解:1
「悵恨」は、志や願いが叶わないことへの不満や無念さを表す言葉である。陳渉は、畑仕事の最中に、ふと自分の現状と、内に秘めた大きな志とのギャップに思い至り、「自分はこんな所にいるべき人間ではないのに」という不満と無念さを感じていたのである。その直後の「苟富貴」という言葉が、彼が今の境遇に甘んじるつもりがないことを示している。
問2 陳渉が仲間に笑われた後、傍線部(2)「嗟乎、燕雀安知鴻鵠之志哉」と言い返した。この言葉に込められた陳渉の心情として、最も適当なものを次から選べ。
- 自分の大きな志が、平凡な仲間に理解されないのは当然だと、半ば諦め、半ば自らを慰める気持ち。
- 自分の志を笑われたことに対する、強い怒りと軽蔑。
- 自分の志が、いかに世間離れしているかを自覚し、自嘲する気持ち。
- 自分の志を理解してもらえない、深い孤独感と悲しみ。
【解答・解説】
正解:1
「燕雀(ツバメやスズメ)」は、軒下など低い場所を飛ぶ小さな鳥であり、平凡な仲間たちをたとえている。「鴻鵠(オオトリや白鳥)」は、はるか上空を飛ぶ大きな鳥であり、大きな志を持つ陳渉自身をたとえている。この比喩は、住む世界が違うのだから、彼らに自分の志が理解できないのは仕方のないことだ、という一種の諦めと、自分は彼らとは違う特別な存在なのだというプライドが入り混じった心情を表している。単なる怒りや自嘲、孤独感だけでは捉えきれない、複雑な心境である。
問3 この逸話から生まれた「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」ということわざは、どのような状況で使われるか。最も適当なものを次から選べ。
- 平凡な人物には、英雄や偉大な人物の抱く大きな志は到底理解できない、という状況。
- 経験の浅い若者には、年長者の深い考えはなかなか理解できない、という状況。
- 専門家でない素人には、専門分野の奥深さは到底理解できない、という状況。
- 裕福な人物には、貧しい人々の本当の苦しみは到底理解できない、という状況。
【解答・解説】
正解:1
このことわざの核心は、「燕雀」と「鴻鵠」という、スケールの違いの対比にある。したがって、小人物には大人物の考えや志が理解できない、という文脈で使われるのが最も適切である。年齢や専門性、貧富の差といった、他の文脈で使うのは、本来の意味から外れる。
【覚えておきたい知識】
重要句法
- 苟(いやしく)も~ば、…:「もし~ならば、…」。仮定条件。
- 無~ (~することなかれ):「~するな」。禁止形。
- 安(いづ)くんぞ~や:「どうして~か、いや~ない」。反語形。
重要単語
- 陳渉(ちんしょう):秦末の農民反乱の指導者。史上初の農民出身の王を名乗った。
- 傭耕(ようこう):日雇いで畑仕事をすること。
- 輟(や)む:やめる、中断する。
- 壟上(ろうじょう):畑のあぜ道の上。
- 悵恨(ちょうこん):不満に思う、残念に思う、嘆き恨む。
- 富貴(ふうき):財産があり、身分が高いこと。
- 太息(たいそく):深いため息。
- 燕雀(えんじゃく):ツバメとスズメ。小人物のたとえ。
- 鴻鵠(こうこく):オオトリと白鳥。大きな鳥。大人物のたとえ。
背景知識:燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや(えんじゃく いづくんぞ こうこくのこころざしをしらんや)
出典は『史記』陳渉世家。「世家」は諸侯を記す部分で、一農民である陳渉がここに記されているのは異例。彼は秦の圧政に対して、史上初の大規模な農民反乱を起こし、「王侯将相いずくんぞ種あらんや(王や諸侯、将軍や大臣は、特別な家柄の者でなければなれないということがあろうか、いや、ない)」と叫んで、身分秩序を揺るがした人物である。この「燕雀鴻鵠」の逸話は、そんな彼の若き日の野心を象徴するエピソードとして有名。小人物には大人物の大きな志は理解できない、という意味で使われる。