107(『韓非子』難一 より 矛盾)
本文
楚人有鬻盾与矛者、誉之曰、「吾盾之堅、物莫能陥也。」又誉其矛曰、「吾矛之利、於物無不陥也。」或曰、「(1)以子之矛、陥子之盾、何如。」其人弗能応也。
夫不可陥之盾、与無不陥之矛、不可同世而立。今堯・舜倶善、而曰、「聖王不相襲、時世異也。」(2)夫不相襲、則其所為相詭也。皆善、此乃矛盾之説也。
【書き下し文】
楚人(そひと)に盾(たて)と矛(ほこ)とを鬻(ひさ)ぐ者有り、之を誉(ほ)めて曰く、「吾(わ)が盾の堅きこと、物として能(よ)く陥(とほ)すもの莫(な)きなり。」と。又(ま)た其の矛を誉めて曰く、「吾が矛の利きこと、物に於(お)いて陥さざる無きなり。」と。或(あ)るひと曰く、「(1)子の矛を以(もっ)て、子の盾を陥さば、何如(いかん)。」と。其の人、応(こた)ふること能(あた)はざるなり。
夫(そ)れ陥(とほ)す可(べ)からざるの盾と、陥さざる無きの矛とは、同(おな)じき世に立つ可からず。今、堯(ぎょう)・舜(しゅん)は倶(とも)に善(ぜん)なり、而(しか)るに曰く、「聖王(せいおう)は相(あひ)襲(つ)がず、時世(じせい)異なればなり。」と。(2)夫れ相襲がずんば、則ち其の為(な)す所は相(あひ)詭(そむ)くなり。皆善なりとは、此(こ)れ乃(すなは)ち矛盾の説なり。
【現代語訳】
そもそも、絶対に突き通せない盾と、絶対に突き通せないものはない矛が、同じ世界に両立することはありえない。今、(儒家たちは)堯と舜はどちらも優れた聖王だと言う。しかし一方で、「聖王のやり方は互いに受け継がれるものではない、時代が違うからだ」とも言う。(2)そもそも互いにやり方を受け継がないのなら、その行いは互いに食い違っているはずだ。それなのに両方とも優れているというのは、これこそが矛盾した説である。
【設問】
問1 傍線部(1)「以子之矛、陥子之盾、何如」という質問に対し、商人が答えられなかったのはなぜか。その論理的な帰結として最も適当なものを次から選べ。
- もし矛が盾を突き通せば「最強の盾」という主張が、突き通せなければ「最強の矛」という主張が、それぞれ嘘になるから。
- 実際に試してみなければ結果がわからず、憶測で答えることができなかったから。
- 矛と盾を実際にぶつけ合えば、どちらか一方の商品が壊れてしまい、商売にならないから。
- 客を言い負かすための、うまい言い返しが思いつかなかったから。
【解答・解説】
正解:1
商人の主張は「A:いかなるものも、この盾を陥すことはできない」と「B:この矛は、いかなるものも陥すことができる」の二つである。客の質問は、この矛と盾を直接対決させる思考実験を提示している。その結果は、「盾が貫かれる」か「盾が貫かれない」の二通りしかない。前者の場合、主張Aが偽となり、後者の場合、主張Bが偽となる。どちらの結果になっても、彼の二つの主張の一方が必ず破綻する。この論理的な袋小路に追い込まれたため、彼は何も答えられなくなったのである。
問2 筆者は、「矛盾」の寓話を、儒家のどのような主張を批判するために用いているか。最も適当なものを次から選べ。
- やり方が異なる堯と舜を、どちらも絶対的な聖王だと主張すること。
- 聖王の政治は、時代に合わせて変えるべきだと主張すること。
- 堯と舜のような聖王は、現代にはもう現れないと主張すること。
- 堯と舜の政治の優劣を、明確にしようとしないこと。
【解答・解説】
正解:1
筆者は、矛と盾の話に続けて、「今、堯・舜は倶に善なり…皆善なりとは、此れ乃ち矛盾の説なり」と述べている。これは、「矛盾」の論理を、儒家が理想とする堯と舜の評価に適用したものである。やり方が違う(=相詭く)二人の王を、どちらも絶対的に正しい(=善)と主張するのは、「最強の盾」と「最強の矛」を同時に主張するのと同じくらい、論理的に矛盾している、と批判しているのである。
問3 傍線部(2)「夫不相襲、則其所為相詭也」の解釈として、最も適当なものを次から選べ。
- 互いにやり方を受け継がないのであれば、その行いは互いに相手をだますことになる。
- 互いにやり方を受け継がないのであれば、どちらか一方が間違っていることになる。
- 互いにやり方を受け継がないのであれば、その行いは互いに食い違っているはずだ。
- 互いにやり方を受け継がないのであれば、その功績も互いに異なるはずだ。
【解答・解説】
正解:3
「相襲がず」は、やり方が同じではなく、継承されていないことを意味する。「其の為す所」はその政治的な行い。「相詭く」は、互いに食い違う、矛盾する、という意味である。したがって、この文は「(堯と舜の)政治手法が互いに継承されていないのであれば、そのやり方は互いに食い違っているはずだ」という意味になり、選択肢3が最も正確な解釈である。
【覚えておきたい知識】
重要句法
- 莫能~ (よく~するはなし):「~できるものは何もない」。不可能を表す。
- 無不~ (~ざるはなし):「~ないものはない」。二重否定であり、強い肯定(「必ず~する」)を表す。
- 弗能~ (~することあたはず):「~することができない」。不可能を表す。「不」よりも強い否定。
- 不可~ (~べからず):「~できない」「~してはならない」。不可能・禁止。
重要単語
- 鬻(ひさ)ぐ:商品を売る。行商する。
- 誉(ほ)む:ほめる。自慢する。
- 陥(とほ)す:突き通す。貫く。
- 或(あ)るひと:ある人。不特定の人を指す。
- 何如(いかん):どうであるか、どうなるか。
- 堯(ぎょう)・舜(しゅん):古代中国の伝説上の聖王。儒家によって理想の為政者とされた。
- 襲(つ)ぐ:受け継ぐ、継承する。
- 詭(そむ)く:そむく、食い違う。
背景知識:矛盾(むじゅん)
出典は『韓非子』難一篇。「難」とは、他人の説の難点を問いただす、の意。この話は、弁論における論理的な矛盾を指摘する例として挙げられている。ここから、二つの事柄のつじつまが合わないことを意味する「矛盾」という故事成語が生まれた。韓非子は、現実の社会状況に即した厳格な「法」による統治を主張し、儒家が理想とするような、曖昧で時代遅れの「徳」や過去の聖王のやり方を、しばしばこのような論理的な寓話を用いて批判した。