105(『戦国策』韓策 より 鶏口牛後)
本文
蘇秦為趙合従、説韓王曰、「韓北有鞏・成皋之固、西有宜陽・常山之塞、東有宛・穣・潁川、南有陘山。地方九百余里、帯甲数十万。天下之彊弓・勁弩・利剣、皆従韓出。…(中略)…夫以韓之彊、大王之賢、而西面事秦、(1)称臣而朝、天下必笑王。
是故願大王之熟計之。臣聞、『寧為鶏口、無為牛後。』今西面事秦、(2)大王之与牛後、何以異。」
韓王忿然作色、攘臂按剣、仰天太息曰、「寡人雖不肖、必不能事秦。今、先生幸教之。寡人敬奉社稷、以従。」
【書き下し文】
蘇秦(そしん)、趙(ちょう)の為に合従(がっしょう)を為(な)し、韓王(かんおう)に説きて曰く、「韓は北に鞏(きょう)・成皋(せいこう)の固(かた)め有り、西に宜陽(ぎよう)・常山(じょうざん)の塞(せき)有り、東に宛(えん)・穣(じょう)・潁川(えいせん)有り、南に陘山(けいざん)有り。地方(ちほう)九百余里、帯甲(たいこう)数十万。天下の強弓(きょうきゅう)・勁弩(けいど)・利剣(りけん)は、皆(みな)韓より出(い)づ。…(中略)…夫(そ)れ韓の彊(きょう)と、大王の賢とを以て、西面(せいめん)して秦に事(つか)へ、(1)臣と称して朝(ちょう)せば、天下、必ず王を笑はん。
是(こ)の故に大王の之を熟計(じゅっけい)せんことを願ふ。臣聞く、『寧(むし)ろ鶏口(けいこう)と為(な)るも、牛後(ぎゅうご)と為(な)ること無(な)かれ。』と。今、西面して秦に事ふれば、(2)大王の牛後たる、何以(なにをもっ)て異ならん。」と。
韓王、忿然(ふんぜん)として色(いろ)を作(な)し、臂(ひぢ)を攘(はら)ひ剣に按(あん)じ、天を仰ぎて太息(たいそく)して曰く、「寡人(かじん)、不肖(ふしょう)なりと雖(いへど)も、必ず秦に事ふること能(あた)はじ。今、先生、幸(さいはひ)に之を教ふ。寡人、社稷(しゃしょく)を敬奉(けいほう)し、以て従はん。」と。
【現代語訳】
ですから、大王がこのことをよくお考えになるよう願っております。私が聞いておりますことわざに、『いっそ鶏のくちばしとなっても、牛の尻にはなるな。』とあります。今、西を向いて秦に仕えるならば、(2)大王が牛の尻であるのと、何の変わりがありましょうか(いや、全く同じです)。」と。
韓王は、かっとなって顔色を変え、腕まくりをして剣の柄に手をかけ、天を仰いで大きくため息をついて言った、「私は不徳者ではあるが、断じて秦に仕えることはできない。今、先生(蘇秦)が幸いにもその道理を教えてくださった。私は、国家を謹んで奉じ、先生の合従策に従いましょう。」と。
【設問】
問1 蘇秦が、韓王を説得するにあたり、最初に韓の国の地勢や軍事力について詳しく述べたのはなぜか。その意図として最も適当なものを次から選べ。
- 韓の国力は、秦に単独で対抗できるほど強大であると、王に自信を持たせるため。
- 韓の国力について自分が熟知していることを示し、王の信頼を得るため。
- 韓の国力をもってすれば、合従軍の中心的存在になれると、王をおだてるため。
- これほどの国力がありながら秦に仕えるのは、いかに不合理で不名誉なことかを、後に強調するため。
【解答・解説】
正解:4
蘇秦の弁論の構成は、まず韓の国力がいかに素晴らしいかを最大限に褒め称え、その上で「それほどの国が秦の属国になるのは、いかに恥ずかしいことか」と、落差を強調する手法をとっている。最初に国力を詳細に述べるのは、後の「牛後」の屈辱をより際立たせるための、巧みな布石である。
問2 傍線部(2)「大王之与牛後、何以異」という蘇秦の言葉の修辞(レトリック)として、最も適当なものを次から選べ。
- 比喩
- 反語
- 倒置
- 対句
【解答・解説】
正解:2
「何以異(何以て異ならん)」は、「どうして違いがあろうか、いや、全く違いはない」という意味の反語形である。蘇秦は、疑問の形で問いかけながら、実際には「秦に仕える王は、牛の尻と全く同じだ」と強く断定しており、これにより韓王の感情に強く訴えかけている。
問3 韓王が、蘇秦の説得を聞いて「忿然作色」した、その怒りの主な対象は誰か。最も適当なものを次から選べ。
- 無礼な比喩を使って自分を侮辱した、蘇秦に対して。
- 韓の国を属国扱いしようとする、傲慢な秦に対して。
- 秦に仕えるという屈辱的な選択肢を、一度は考えてしまった自分自身に対して。
- 上記のすべてが合わさった、複雑な感情の対象。
【解答・解説】
正解:4
韓王の怒りは複合的なものである。蘇秦の「牛後」という直接的な物言いにカチンときた部分(1)、そもそもそのような状況を作り出している秦への怒り(2)、そして、蘇秦に図星を指され、そのような不名誉な道を考えていた自分への不甲斐なさ(3)、これらすべてが入り混じって「忿然」という激しい感情の表出になったと考えられる。文脈上、特に2と3の要素が強いが、蘇秦の言葉が引き金になっているため、4が最も全体を捉えている。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 蘇秦(そしん):戦国時代の縦横家。秦に対抗するため、韓・魏・趙・燕・斉・楚の六国が同盟を結ぶ「合従策」を説いて成功させた。
- 合従(がっしょう):南北(縦)に連なる国々が同盟し、西の強国・秦に対抗する政策。
- 帯甲(たいこう):鎧を身につけること。転じて、武装した兵士。
- 西面(せいめん)す:西を向くこと。韓から見て西にある秦に仕えることを意味する。
- 臣と称して朝す(しんとしょうしてちょうす):家来であると名乗り、主君の朝廷に出仕すること。完全な服従を示す。
- 鶏口(けいこう):鶏のくちばし。小さい組織の長(かしら)のたとえ。
- 牛後(ぎゅうご):牛の尻。大きい組織の下っ端のたとえ。
- 忿然(ふんぜん):かっとなって怒るさま。
- 不肖(ふしょう):愚かであること。王侯の自称。寡人と同様の謙譲語。
- 社稷(しゃしょく):土地の神と穀物の神。転じて、国家のこと。
背景知識:鶏口牛後(けいこうぎゅうご)
出典は『戦国策』韓策(『史記』蘇秦列伝にも類話あり)。戦国時代、強大な秦に対抗するため、蘇秦が韓・魏・趙・燕・斉・楚の六国を説いて南北の同盟(合従策)を結ばせようとした際の逸話。これは韓王を説得した場面である。この故事から、「大きな集団や組織の末端にいるよりも、たとえ小さくともその長となる方がよい」という意味の「鶏口となるも牛後となるなかれ」、略して「鶏口牛後」という言葉が生まれた。独立や自主性を重んじる気概を示す際に用いられる。