147(『史記』管晏列伝 より 管鮑の交わり)

本文

管仲夷吾者、潁上人也。少時、常与鮑叔牙遊。鮑叔知其賢。管仲貧、常欺鮑叔。鮑叔終善遇之、不以為言。
已而、鮑叔事斉公子小白、管仲事公子糾。及小白立、為桓公、公子糾死、管仲囚焉。鮑叔遂進管仲。管仲既用、任政於斉、斉桓公以覇。
管仲曰、「(1)吾始困時、嘗与鮑叔賈、分財利多自与。鮑叔不以我為貪、知我貧也。…(中略)…(2)吾嘗三戦三走。鮑叔不以我為怯、知我有老母也。…(中略)…(3)生我者父母、知我者鮑子也。」
鮑叔既進管仲、身為之下。…(中略)…天下不多管仲之賢、而多鮑叔能知人也。

【書き下し文】
管仲(かんちゅう)は夷吾(いご)は、潁上(えいじょう)の人なり。少(わか)き時、常に鮑叔牙(ほうしゅくが)と遊ぶ。鮑叔、其の賢なるを知る。管仲貧しく、常に鮑叔を欺(あざむ)く。鮑叔、終(つひ)に善く之を遇し、以て言と為さず。
已(すで)にして、鮑叔は斉の公子(こうし)小白(しょうはく)に事(つか)へ、管仲は公子糾(きゅう)に事ふ。小白立ちて、桓公(かんこう)と為(な)るに及び、公子糾死し、管仲囚(とら)はる。鮑叔、遂に管仲を薦(すす)む。管仲既に用ゐられ、政(まつりごと)を斉に任(まか)され、斉の桓公、以て覇(は)たり。
管仲曰く、「(1)吾、始め困(くる)しみし時、嘗(かつ)て鮑叔と賈(こ)し、財利を分かつに多く自ら与ふ。鮑叔、我を以て貪(どん)と為さず、我が貧なるを知ればなり。…(中略)…(2)吾、嘗て三たび戦ひて三たび走(に)ぐ。鮑叔、我を以て怯(きょう)と為さず、我に老母有るを知ればなり。…(中略)…(3)我を生みし者は父母、我を知る者は鮑子(ほうし)なり。」と。
鮑叔、既に管仲を薦め、身、之が下(した)と為る。…(中略)…天下、管仲の賢を多(か)とするにあらずして、鮑叔の能(よ)く人を知るを多とす。

【現代語訳】
管仲、名は夷吾は、潁上の出身である。若い頃、いつも鮑叔牙と一緒に遊んでいた。鮑叔は、管仲が賢明な人物であることを知っていた。管仲は貧しく、いつも鮑叔を(だますようにして自分の方が多く利を得ていたが)鮑叔は、最後まで管仲に良くしてやり、そのことをとやかく言わなかった。
その後、鮑叔は斉の公子である小白に仕え、管仲は公子の糾に仕えた。やがて小白が即位して桓公となると、公子糾は殺され、管仲は囚われの身となった。鮑叔は、そこで桓公に管仲を推薦した。管仲が登用されると、斉の国政を任され、斉の桓公は彼のおかげで天下の覇者となった。
(後に)管仲は言った、「(1)私が昔、貧しく困っていた時、鮑叔と一緒に商売をして、利益を分ける際にいつも自分の方が多く取った。しかし鮑叔は、私のことを貪欲だとは思わなかった、私が貧しいことを知っていたからだ。…(中略)…(2)私が三度、戦に出て三度とも逃げた。しかし鮑叔は、私のことを臆病だとは思わなかった、私に老いた母がいることを知っていたからだ。…(中略)…(3)私を産んでくれたのは父母だが、私を(本当に)理解してくれたのは鮑叔、その人である。」と。
鮑叔は、管仲を推薦した後、自ら進んで管仲の下の地位についた。…(中略)…世間の人々は、管仲の賢明さを称賛する以上に、鮑叔がよく人を見抜いたことを称賛したのである。

【設問】

問1 傍線部(1)と(2)で管仲が挙げているエピソードに共通する、鮑叔の友人としての態度はどのようなものか。最も適当なものを次から選べ。

  1. 友人の過ちを、黙って見逃してやる寛大な態度。
  2. 友人の行動の、表面的な意味だけでなく、その裏にある事情や真意を理解しようとする態度。
  3. 友人が困っている時には、見返りを求めずに助ける、献身的な態度。
  4. 友人の才能を信じ、いつか成功するはずだと励まし続ける、楽観的な態度。
【解答・解説】

正解:2

管仲が利益を多く取った時、普通の人間なら「貪欲だ」と思う。しかし鮑叔は「彼が貧しいからだ」と理解した。管仲が戦から逃げた時、普通の人間なら「臆病者だ」と思う。しかし鮑叔は「彼には老いた母がいるからだ」と理解した。これらのエピソードに共通するのは、鮑叔が、友人の一見すると問題に見える行動を、その背後にある事情まで深く洞察し、本質を理解していた点である。

問2 傍線部(3)「生我者父母、知我者鮑子也」という管仲の言葉の意味を最もよく説明しているものを次から選べ。

  1. 父母は自分に肉体的な生命を与えてくれたが、鮑叔は自分の才能や人格を理解し、社会的な生命を与えてくれた。
  2. 父母よりも鮑叔の方が、自分のことをよく理解してくれていた。
  3. 自分を生んでくれた父母と同じくらい、鮑叔のことも尊敬している。
  4. 自分という人間は、父母と鮑叔という二つの大きな存在によって作り上げられた。
【解答・解説】

正解:1

この言葉は、「生我(私に生命を与えた)」という父母の根源的な恩と、「知我(私を理解した)」という鮑叔の恩を、対比の形で並べている。これは、鮑叔の「理解」がなければ、自分の才能は埋もれたままであり、社会的に活躍する(=生きる)ことはできなかった、ということを示している。つまり、鮑叔は、自分の社会的な「生みの親」とも言うべき存在である、という最大限の感謝を表している。

問3 世間の人々が、「管仲の賢を多とするにあらずして、鮑叔の能く人を知るを多とす」と評価したのはなぜか。その理由として最も適当なものを次から選べ。

  1. 管仲の成功が、鮑叔の推薦なくしてはありえなかったから。
  2. 自分の地位を顧みず、友のために尽くした鮑叔の友情の美しさに、人々が感動したから。
  3. 優れた才能を持つ者よりも、その才能を見抜き、活かすことのできる人物の方が、世の中には稀で貴重だから。
  4. 上記のすべて。
【解答・解説】

正解:4

世間の評価は、複合的な理由に基づいている。まず、管仲の才能が開花したのは、鮑叔の推薦というきっかけがあったからである(1)。また、敵対する立場にあった友を、自らの地位を顧みずに推薦し、さらにその下についた鮑叔の友情物語は、人々の心を強く打つものであった(2)。そして、韓愈の「伯楽と千里の馬」の逸話にも通じるように、優れた才能(千里の馬)は常にいるが、それを見抜ける人物(伯楽)は非常に稀である、という認識も背景にある(3)。したがって、これらすべてが、鮑叔への称賛の理由となっている。

【覚えておきたい知識】

重要単語

背景知識:管鮑の交わり(かんぽうのまじわり)

出典は『史記』管晏列伝。春秋時代、斉の国の管仲と鮑叔牙の友情を描いた故事。鮑叔は、若い頃から管仲の非凡な才能を見抜き、管仲が世間から誤解されるような行動をとっても、常にその真意を理解し、彼を信じ続けた。そして、敵対する立場にあった管仲を、自分の地位を投げ打って宰相に推薦し、友の才能を天下に知らしめた。このことから、「管鮑の交わり」は、互いを深く理解し信頼し合う、非常に厚い友情のたとえとして使われる。「我を生みし者は父母、我を知る者は鮑子なり」は、その友情の深さを象徴する名言である。

レベル:共通テスト標準|更新:2025-07-26|問題番号:147