138(『論語』学而 より 学びの三段階)
本文
子曰、「(1)学而時習之、不亦説乎。(2)有朋自遠方来、不亦楽乎。(3)人不知而不慍、不亦君子乎。」
【書き下し文】
子(し)曰(のたま)はく、「(1)学びて時に之(これ)を習ふ、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。(2)朋(とも)有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。(3)人知らずして慍(うら)みず、亦た君子(くんし)ならずや。」と。
【現代語訳】
【設問】
問1 傍線部(1)の「説(よろこび)」が、どのような種類の喜びを指しているか。最も適当なものを次から選べ。
- 学んだ知識が深まり、物事の道理が理解できるようになる、内面的な喜び。
- 学問の成果が認められ、人々から称賛される、社会的な喜び。
- 難しい学問を終え、肩の荷が下りたような、解放感からくる喜び。
- 学問を通じて、今まで知らなかった新しい世界に触れる、発見の喜び。
【解答・解説】
正解:1
「説」は、内側から静かに満ちてくるような、知的な満足感を伴う喜びを指す。「学びて時に之を習ふ」というプロセスは、知識をただ暗記するのではなく、繰り返し実践・復習することで、それが自分のものとなり、物事の道理が腑に落ちる境地に至ることを意味する。この、理解が深化していく過程で得られる内面的な喜びこそが「説」である。
問2 傍線部(2)の「朋(とも)」は、どのような人物を指していると考えられるか。最も適当なものを次から選べ。
- 幼い頃から一緒に育った、気心の知れた友人。
- 自分の知らない知識を教えてくれる、物知りな友人。
- 同じ師のもとで、同じ道を志して学ぶ、同志としての友人。
- 自分の学問の成果を発表し、評価してくれる友人。
【解答・解説】
正解:3
『論語』における「朋」は、単なる遊び友達ではなく、同じく「道」を学び、徳を高めようと志す「同志」という、特別な意味合いで使われることが多い。第一句の「学び」を受けていることから、ここで言う「朋」も、その学びを共有し、共に語り合い、切磋琢磨できる仲間を指していると考えるのが最も自然である。遠方からわざわざ訪ねてくるのは、その道を求める熱意があるからである。
問3 傍線部(3)「人不知而不慍」が、「君子」の最高の境地とされるのはなぜか。最も適当なものを次から選べ。
- 他人の評価という、自分ではコントロールできないものに、心が左右されなくなったから。
- 自分の徳が完成され、もはや他人の評価を必要としなくなったから。
- 世俗的な名誉や地位には価値がないと、完全に悟ったから。
- 上記のすべて。
【解答・解説】
正解:4
「君子」の境地とは、学びが完成し、徳が人格として完全に統合された状態である。この段階に至ると、喜びの源泉は、完全に自己の内面(道徳の実践そのもの)に確立される。そのため、他人が自分を認めるか認めないか(人知らず)という外部からの評価は、もはや自分の心の平穏(慍みず)を乱す要因にはならない(1)。これは、自己の徳が完成しているという自信(2)と、世俗的な価値からの超越(3)に基づいている。したがって、これらすべてが、この境地を説明する要素となる。
【覚えておきたい知識】
重要句法
- 不亦A乎 (またAならずや):「なんとAではないか」。詠嘆・反語の形で、強い肯定を表す。
重要単語
- 子(し):先生。ここでは孔子のこと。
- 時(とき)に:機会があるごとに、折にふれて。
- 習(なら)ふ:復習する、実践する。
- 説(よろこ)ばし:喜ばしい。知的な満足感、内面的な喜び。
- 朋(とも):同じ師について学ぶ友人、同志。
- 楽(たの)し:楽しい。他者と分かち合う、外向的な楽しさ。
- 慍(うら)みず:不平不満に思わない、いきどおらない。
- 君子(くんし):徳の完成した、理想的な人物。
背景知識:論語の冒頭
出典は『論語』学而篇の第一章。すなわち、『論語』全体の冒頭を飾る、最も有名な章句の一つである。この短い三つの文は、孔子の思想の核心である「学び」のプロセスと、その先にある理想的な人格「君子」の境地を、段階的に示しているとされる。第一段階は、学びそのものから得られる個人的・内面的な「喜び(説)」。第二段階は、同志と学びを語り合う社交的な「楽しさ(楽)」。そして最終段階は、他者の評価から解放され、徳そのものに安住する「君子」の境地である。孔子の教えが、単なる知識の習得ではなく、人格の陶冶(とうや)を目指すものであることを象徴している。