136(『史記』項羽本紀 より 鴻門の会の攻防)
本文
范増、数目項王、挙所佩玉玦者三。項王黙然不応。范増起、出、召項荘、謂曰、「君王為人不忍。若入前為寿、寿畢、請以剣舞、(1)因撃沛公於坐、殺之。不者、若属皆且為所虜。」荘則入為寿。寿畢、曰、「君王与沛公飲、軍中無以為楽。請以剣舞。」項王曰、「諾。」
項荘抜剣起舞。項伯亦抜剣起舞、常以身翼蔽沛公。荘不得撃。
於是張良至軍門、見樊噲。…(中略)…噲即帯剣擁盾入軍門。…(中略)…瞋目視項王。項王按剣而跽曰、「客何為者。」…(中略)…項王曰、「壮士。」賜之卮酒。…(中略)…樊噲曰、「臣死且不避、卮酒安足辞。…(中略)…(2)大王不聴、今又誅有功之人、此亡秦之続耳。窃為大王不取也。」(3)項王未有以応。
【書き下し文】
范増(はんぞう)、項王(こうおう)に数(しばしば)目(もく)し、佩(お)ぶる所の玉玦(ぎょっけつ)を挙(あ)ぐること三(み)たびす。項王、黙然(もくぜん)として応(おう)ぜず。范増、起(た)ちて出で、項荘(こうそう)を召し、謂(い)ひて曰く、「君王(くんのう)の人と為(な)り、忍(しの)びず。若(なんぢ)、入りて前(すす)み寿(じゅ)を為せ。寿畢(お)はらば、請ふ、剣を以て舞はん。(1)因(よ)りて沛公(はいこう)を坐に撃ち、之を殺せ。不者(しからずんば)、若が属(ぞく)、皆且(まさ)に虜(とりこ)と為(な)らんとするなり。」と。荘、則ち入りて寿を為す。寿畢はりて、曰く、「君王、沛公と飲むに、軍中以て楽を為す無し。請ふ、剣を以て舞はん。」と。項王曰く、「諾(だく)。」と。
項荘、剣を抜き起(た)ちて舞ふ。項伯(こうはく)も亦剣を抜き起ちて舞ひ、常に身を以て沛公を翼蔽(よくへい)す。荘、撃つを得ず。
是に於いて張良(ちょうりょう)、軍門に至り、樊噲(はんかい)に見(まみ)ゆ。…(中略)…噲、即ち剣を帯び盾を擁(よう)して軍門に入る。…(中略)…目を瞋(いか)らして項王を視る。項王、剣に按(あん)じて跽(ひざまず)きて曰く、「客(かく)は何為(なに)する者ぞ。」と。…(中略)…項王曰く、「壮士(そうし)なり。」と。之に卮酒(ししゅ)を賜(たま)ふ。…(中略)…樊噲曰く、「臣、死すら且に避けず、卮酒、安(いづく)んぞ辞するに足らん。…(中略)…(2)大王聴かず、今又(ま)た功有るの人を誅(ちゅう)するは、此れ亡秦(ぼうしん)の続(ぞく)なるのみ。窃(ひそ)かに大王の為に取らざるなり。」と。(3)項王、未(いま)だ以て応ふる有らず。
【現代語訳】
項荘は剣を抜いて舞い始めた。すると(劉邦側の)項伯もまた剣を抜いて舞い、常に自分の体で翼のように劉邦をかばった。そのため、項荘は劉邦を斬ることができなかった。
そこで張良は陣営の門まで行き、樊噲に会った。…(中略)…樊噲はすぐに剣を身につけ盾を抱えて陣門に押し入った。…(中略)…目をかっと見開いて項羽をにらみつけた。項羽は(思わず)剣の柄に手をかけて身構え、「そなたは何者だ。」と言った。…(中略)…項羽は「立派な男だ。」と言い、大杯の酒を与えた。…(中略)…樊噲は言った、「私は死さえも避けませんのに、一杯の酒をどうして断りましょうか。…(中略)…(2)(人の忠告を)大王が聞き入れず、今また功績のあった人物を罰するというのは、これは滅びた秦のやり方を続けるにすぎません。ひそかに大王のために、そのようなやり方はお取りにならない方がよいと思います。」と。(3)項羽は、これに答える言葉がなかった。
【設問】
問1 傍線部(1)で范増が項荘に命じた暗殺計画について、その巧妙な点は何か。最も適当なものを次から選べ。
- 宴会の余興である「剣舞」を装うことで、相手を油断させ、不意を突いて目的を遂げようとしている点。
- 項羽の従兄弟である項荘に実行させることで、計画の成功を確実にしようとしている点。
- もし失敗しても、「舞の最中の事故」として、項羽の責任を回避できるようにしている点。
- 上記のすべて。
【解答・解説】
正解:4
この暗殺計画は、複数の点で巧妙である。まず、宴の余興という名目(1)は、殺意を隠し、相手を油断させるのに最適である。また、万が一失敗したり、後で問題になったりした場合でも、「舞の最中の事故だった」と言い逃れができる(3)。さらに、項羽自身が決断できないため、その血縁である項荘(2)に汚れ役を実行させようとしている。したがって、これらすべてが計画の巧妙さを示している。
問2 傍線部(2)「大王不聴、今又誅有功之人、此亡秦之続耳」という樊噲の言葉は、どのような論理で項羽を批判しているか。最も適当なものを次から選べ。
- 道徳的な論理:功績のある者を罰するのは、人として許されない。
- 歴史的な論理:功績のある者を罰するのは、天下の信頼を失って滅んだ秦と同じ過ちである。
- 感情的な論理:功績のある者を罰するような冷酷な君主には、誰もついてこない。
- 個人的な論理:功績のある劉邦を罰するなら、自分も黙ってはいない。
【解答・解説】
正解:2
樊噲は、劉邦を殺すことの是非を、単なる道徳論や感情論で語ってはいない。彼は、項羽や劉邦たちが共に戦って滅ぼしたばかりの「亡秦(滅亡した秦王朝)」を歴史的な前例として引き合いに出している。秦がなぜ滅んだかと言えば、天下の信頼を失うような暴政を行ったからである。そして、「功有るの人を誅する」のは、まさにその秦の過ちを繰り返す(続)ことになると指摘している。これは、歴史の教訓に基づいた、極めて強力な政治的論理である。
問3 傍線部(3)「項王未有以応」とあるが、なぜ項羽は樊噲の言葉に反論できなかったのか。その理由として最も適当なものを次から選べ。
- 樊噲のあまりの気迫に圧倒され、言葉を失ってしまったから。
- 樊噲の主張が、反論の余地のない正論であったため、返す言葉が見つからなかったから。
- もともと劉邦を殺す気などなく、范増の計画にうんざりしていたから。
- 樊噲の主張に感動し、自分の過ちを認めて、黙って受け入れたから。
【解答・解説】
正解:2
樊噲の言葉は、単なる勇ましい脅しではなく、「功ある者を罰するのは亡秦の二の舞」という、誰もが認めざるを得ない歴史の教訓に基づいた正論であった。覇者として天下を治めようとする項羽にとって、自分が「亡秦」と同じだと指摘されることは、最も痛いところを突かれたに等しい。その論理の前に、彼は反論することができなかったのである。もちろん、樊噲の気迫(1)も影響はしているが、言葉を失った直接の理由は、その主張の正しさにある。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 范増(はんぞう):項羽の参謀。「亜父(あふ)(父に次ぐ人)」と呼ばれたが、最後は項羽に疎まれた。
- 玉玦(ぎょっけつ):C字形の玉器。玦は「決」に通じ、決断を促す合図に使われた。
- 沛公(はいこう):劉邦のこと。沛の出身であるためこう呼ばれた。
- 忍(しの)びず:情にもろくて非情なことができない。
- 項荘(こうそう):項羽の従兄弟。
- 項伯(こうはく):項羽の叔父。張良と親交があり、この場で劉邦をかばった。
- 翼蔽(よくへい):鳥が翼で雛を覆うように、かばい守ること。
- 樊噲(はんかい):劉邦の配下の猛将。劉邦の妻の妹婿でもある。
- 亡秦之続(ぼうしんのぞく):滅亡した秦の二の舞、前轍を踏むこと。
- 未有以応(いまだもってこたふるあらず):まだ反論する言葉がない、返答に窮する。
背景知識:鴻門の会(こうもんのかい)
出典は『史記』項羽本紀。秦の滅亡後、項羽と劉邦が天下の覇権を争った「楚漢戦争」の序盤における、最も有名な逸話の一つ。宴席で劉邦の暗殺が企てられるという絶体絶命の状況で、張良の機転と、この樊噲の命がけの乱入・弁舌によって、劉邦は九死に一生を得る。樊噲の豪胆さと、それを称賛する項羽の器の大きさ、そして樊噲の単なる武勇だけでなく、的確な論理で項羽をやりこめる弁舌の才も描かれている、劇的な名場面である。