133(『史記』項羽本紀 より 四面楚歌の悲壮)

本文

項王軍壁垓下、(1)兵少食尽。漢軍及諸侯兵、囲之数重。夜聞漢軍皆楚歌、項王乃大驚曰、「漢皆已得楚乎。是何楚人之多也。」項王則夜起、飲帳中。有美人、名虞、常幸従。有駿馬、名騅、常騎之。於是項王乃悲歌慷慨、自為詩曰、
「力抜山兮気蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何」
歌数闋、美人和之。(2)項王泣数行下。左右皆泣、(3)莫能仰視。

【書き下し文】
項王(こうおう)の軍、垓下(がいか)に壁(へき)すれども、(1)兵は少なく食は尽(つ)く。漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重(すうちょう)なり。夜、漢軍の皆(みな)楚歌(そか)するを聞き、項王乃(すなは)ち大いに驚きて曰く、「漢、皆已(すで)に楚を得たるか。是(こ)れ何ぞ楚人の多きや。」と。項王、則ち夜起(た)ちて、帳中(ちょうちゅう)に飲す。美人有り、名は虞(ぐ)、常に幸(こう)せられて従ふ。駿馬(しゅんめ)有り、名は騅(すい)、常に之に騎(の)る。是(ここ)に於(お)いて項王、乃ち悲歌(ひか)慷慨(こうがい)し、自(みづか)ら詩を為(つく)りて曰く、
「力は山を抜き 気は世を蓋(おほ)ふ
時、利あらずして 騅(すい)、逝(ゆ)かず
騅の逝かざるを 奈何(いかん)すべき
虞や虞や 若(なんぢ)を奈何せん」と。
歌ふこと数闋(すうけつ)、美人之に和(わ)す。(2)項王、泣(なみだ)数行(すうこう)下る。左右(さゆう)皆泣き、(3)能(よ)く仰ぎ視(み)るもの莫(な)し。

【現代語訳】
項王の軍は、垓下の城壁に立てこもったが、(1)兵士の数は少なくなり、食料も尽きてしまった。劉邦の漢軍と諸侯の連合軍は、これを幾重にも包囲した。夜、漢軍の陣営から聞こえてくるのが、みな故郷である楚の歌であるのを聞き、項王は非常に驚いて言った、「漢は、もうすっかり楚の地を占領してしまったのか。それにしても、なんと楚の出身者が(漢軍には)多いことか。」と。項王は、夜中に起き上がると、陣幕の中で酒宴を開いた。(項王には)虞という名の美人がいて、常に寵愛を受けてそばに従っていた。騅という名の駿馬がいて、常にそれに乗っていた。この時、項王は悲しげに歌い、いきどおり嘆き、自ら詩を作って言った、
「私の力は山を引き抜くほど強く、気迫は世を覆うほどであった。
しかし時の運は私に味方せず、愛馬の騅も前に進もうとしない。
騅が進まないのを、どうすることができようか。
ああ虞よ、虞よ、お前をいったいどうしてやれようか。」と。
歌い終わるのを数回繰り返すと、美人の虞もそれに合わせて歌った。(2)項王の目からは、涙が幾筋も流れ落ちた。周りの者たちも皆泣いて、(3)誰も顔を上げて項王の姿を見ることができなかった。

【設問】

問1 傍線部(1)「兵少食尽」という記述は、この場面においてどのような効果をもたらしているか。最も適当なものを次から選べ。

  1. 項王が、絶望的な状況下で心理的な揺さぶり(楚歌)を受けたことを示し、彼の衝撃の大きさを際立たせる効果。
  2. 項王軍の兵士たちが、飢えと疲労のために、漢軍に寝返りやすくなっていたことを示唆する効果。
  3. 項王が、兵糧の管理に失敗した、指揮官として無能な人物であったことを示す効果。
  4. この後の最後の戦いが、いかに壮絶なものであったかを予感させる効果。
【解答・解説】

正解:1

物語の冒頭で、軍事的に完全に追い詰められている状況(兵は少なく食料は尽き、幾重にも包囲されている)を描写することで、項王が物理的にも精神的にも極限状態にあることを示している。この絶望的な下地があるからこそ、その後に聞こえてくる「楚歌」が、単なる故郷の歌ではなく、彼の心を打ち砕く最後の一撃として、より劇的に響くのである。

問2 項王が、最後の詩の中で特に「騅(愛馬)」と「虞(愛妾)」に言及したのはなぜか。その心情として最も適当なものを次から選べ。

  1. 自らの武勇の象徴であった馬と、心の支えであった女性の行く末を案じる、人間的な愛情と無力感。
  2. 馬と女性を、自らの敗北の道連れにしなければならないことへの、罪悪感。
  3. 馬と女性だけは、敵である劉邦に渡したくないという、独占欲。
  4. 馬と女性に、自分の最後の勇姿を見届けてほしいという、自己顕示欲。
【解答・解説】

正解:1

天下を争う覇王としての項王ではなく、一人の人間としての項王が、最も心を寄せ、愛した存在が「騅」と「虞」であった。自らの死を悟った彼が、最後に気遣うのが、天下や兵士ではなく、この二つの存在であることは、彼の人間的な愛情の深さを示している。そして、「奈何せん(どうしてやれようか)」という言葉は、もはや彼らの運命を守ってやることができない、自らの無力さへの深い嘆きを表している。

問3 傍線部(3)「莫能仰視」とあるが、部下たちが項王の顔を直視できなかったのはなぜか。その理由として最も適当なものを次から選べ。

  1. 項王のあまりに変わり果てた姿に、恐怖を感じたから。
  2. 自分たちが項王を守りきれなかったことへの、申し訳なさと罪悪感から。
  3. 敬愛する主君が涙する痛ましい姿を、まともに見ることが耐えられなかったから。
  4. 項王から、次の命令が下されるのを、固唾をのんで待っていたから。
【解答・解説】

正解:3

「左右皆泣き」という記述から、部下たちも項王と悲しみを共有していることがわかる。「仰ぎ視るもの莫し」というのは、彼らが項王から目をそむけている、あるいは無視しているのではなく、絶対的な英雄であった主君が、人間的な悲しみに打ちひしがれ涙する姿を、あまりの痛ましさと敬愛の念から、直視することができなかった、という心情の表れである。

【覚えておきたい知識】

重要単語

背景知識:四面楚歌(しめんそか)

出典は『史記』項羽本紀。楚の項羽と漢の劉邦が天下を争った最後の戦い「垓下の戦い」での一場面。漢軍に完全に包囲された項羽が、敵陣から故郷である楚の歌が聞こえてくるのを聞き、味方がすべて降伏して敵に回ったと絶望した故事。このことから、周囲をすべて敵に囲まれ、味方が一人もいなくなり孤立無援である状況のたとえとして、「四面楚歌」という言葉が使われる。この場面で作られた項羽の「垓下の歌」は、英雄の最期を飾る悲壮な名詩として知られる。

レベル:共通テスト標準~発展|更新:2025-07-26|問題番号:133