130(『史記』項羽本紀 より 鴻門の会(劉邦の脱出))

本文

(項王、樊噲の言を聞き、未だ以て応ふる有らず。)
沛公、厠に起つ。因りて樊噲を招き出づ。沛公曰く、「今、出でて辞せず、将に奈何せん。」樊噲曰く、「大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞せず。(1)今、人方めて刀俎と為り、我は魚肉と為る。何ぞ辞するを為さん。」是に於いて遂に行く。
乃ち張良に令じて、入りて謝せしむ。良、入りて謝して曰く、「沛公、桮杓に勝へず、辞すること能はず。謹んで白璧一双を拝献して、大王の足下に奉り、玉斗一双を拝献して、大将軍の足下に奉る。」と。項王曰く、「沛公安くに在りや。」良曰く、「大王、意有りて之を責むるを聞き、脱身して独り去り、已に軍に到る。」と。項王、則ち璧を受け、之を坐に置く。亜父、玉斗を受け、地に置き、剣を抜き撞きて之を破りて曰く、「(2)唉、豎子、与に謀るに足らず。項王の天下を奪ふ者は、必ず沛公ならん。(3)吾が属、今に之が虜と為らん。」と。

【書き下し文】
(項王(こうおう)、樊噲(はんかい)の言を聞き、未(いま)だ以て応(こた)ふる有らず。)
沛公(はいこう)、厠(かはや)に立つ。因(よ)りて樊噲を招き出づ。沛公曰く、「今、出でて辞せずんば、将(まさ)に奈何(いかん)せん。」と。樊噲曰く、「大行(たいこう)は細謹(さいきん)を顧(かへり)みず、大礼(たいれい)は小譲(しょうじょう)を辞せず。(1)今、人(ひと)は方(まさ)に刀俎(とうそ)と為(な)り、我は魚肉(ぎょにく)と為(な)る。何ぞ辞するを為(な)さん。」と。是(ここ)に於いて遂(つひ)に行く。
乃(すなは)ち張良(ちょうりょう)に令じて、入りて謝せしむ。良、入りて謝して曰く、「沛公、桮杓(はいしゃく)に勝(た)へず、辞すること能(あた)はず。謹んで白璧(はくへき)一双(いっそう)を拝献(はいけん)して、大王の足下に奉(たてまつ)り、玉斗(ぎょくと)一双を拝献して、大将軍(たいしょうぐん)(范増)の足下に奉る。」と。項王曰く、「沛公は何処(いづく)に在りや。」と。良曰く、「大王、意(こころ)有りて之を責むるを聞き、身を脱して独り去り、已(すで)に軍に到る。」と。項王、則ち璧を受け、之を坐(ざ)に置く。亜父(あふ)(范増)、玉斗を受け、地に置き、剣を抜き撞(つ)きて之を破りて曰く、「(2)唉(ああ)、豎子(じゅし)、与(とも)に謀(はか)るに足らず。項王の天下を奪ふ者は、必ず沛公ならん。(3)吾が属(ぞく)、今に之が虜(とりこ)と為(な)らん。」と。

【現代語訳】
(項羽は、樊噲の言葉を聞き、答える言葉がなかった。)
劉邦は、便所に行くと称して席を立った。そして樊噲を(外へ)呼び出した。劉邦は言った、「今、別れの挨拶もせずに立ち去ろうと思うが、どうだろうか。」と。樊噲は言った、「大事を成す者は、小さな慎みなど気にしませんし、大礼を行う者は、小さな謙遜など問題にしません。(1)今、相手はまさにまな板と包丁であり、我々は魚の肉です。どうして(悠長に)別れの挨拶などする必要がありましょうか。」と。そこで劉邦は、とうとう(挨拶もせず)立ち去ることにした。
そして、張良に命じて、中に入って自分の代わりに謝罪させた。張良が中に入り、謝罪して言った、「沛公は酒に酔ってしまい、ご挨拶をすることができません。謹んで、一対の白い璧を大王の足元に献上し、一対の玉の杯を大将軍(范増)の足元に献上いたします。」と。項羽は言った、「沛公はどこにいるのか。」と。張良は言った、「大王が(先の非礼を)お咎めになるお気持ちだと聞き、恐れをなして、一人で抜け出して、すでに自軍の陣に戻られました。」と。項羽は、璧を受け取ると、それを席に置いた。(項羽の参謀である)亜父(范増)は、玉の杯を受け取ると、地面に置き、剣を抜いて突き、それを粉々に砕いて言った、「(2)ああ、若造(項羽)は、共に大事を謀るには足らぬわ。項王の天下を奪う者は、きっと劉邦だろう。(3)我ら一族は、近いうちに奴の捕虜となるだろう。」と。

【設問】

問1 傍線部(1)「今、人方めて刀俎と為り、我は魚肉と為る」という樊噲の比喩は、彼らが置かれている状況をどのように表現したものか。最も適当なものを次から選べ。

  1. 相手のまな板の上で、いかにうまく踊って見せるかが重要だという状況。
  2. 相手に調理されるのを待つしかない、絶体絶命で無力な状況。
  3. 新鮮な魚の肉のように、自分たちにはまだ大きな価値があるという状況。
  4. いつ切り刻まれるか分からない、一触即発の危険な状況。
【解答・解説】

正解:2

「刀俎」は、まな板と肉切り包丁を指す。「魚肉」は、その上で切り刻まれるのを待つ魚の肉である。この比喩は、項羽側が完全に生殺与奪の権を握っており、劉邦側は抵抗するすべもなく、ただ相手のなすがままの状態であるという、絶対的に無力で危険な状況を表している。だからこそ、樊噲は「挨拶などという悠長なことをしている場合ではない」と主張したのである。

問2 傍線部(2)「唉、豎子、与に謀るに足らず」という范増の怒りの言葉は、誰のどのような点に向けられているか。最も適当なものを次から選べ。

  1. 【誰に】劉邦に - 【どのような点】挨拶もせずに逃げ帰った、その無礼な点。
  2. 【誰に】張良に - 【どのような点】主君の逃亡を手助けした、その裏切りにも似た点。
  3. 【誰に】項羽に - 【どのような点】絶好の機会に決断できず、劉邦を取り逃がした、その甘さ・愚かさ。
  4. 【誰に】自分自身に - 【どのような点】劉邦暗殺の計画を、最後までやり遂げられなかった、その無力さ。
【解答・解説】

正解:3

「豎子」は「若造、こわっぱ」という意味で、目下の者、特にここでは自分の主君である項羽を罵倒する言葉である。范増は、何度も劉邦を殺すよう合図したにもかかわらず、項羽が情に流されて決断できなかったことに激怒している。「共に大事を謀るには足らない」とは、このような甘い君主とは、もはや天下統一という大事業は成し遂げられない、という絶望と軽蔑の表明である。

問3 傍線部(3)「吾が属、今に之が虜と為らん」という范増の予言は、何を根拠としているか。最も適当なものを次から選べ。

  1. この会で劉邦を取り逃がしたことが、いずれ自分たちの破滅につながるという、戦略的な洞察。
  2. 劉邦の家臣である樊噲や張良の有能さを目の当たりにし、もはや勝ち目はないと悟ったから。
  3. 項羽が自分の進言を聞き入れなかったことで、天運が項羽から去ったと直感したから。
  4. 劉邦を逃がしたことで、諸侯の信頼を失い、自分たちが孤立することを予測したから。
【解答・解説】

正解:1

范増は、劉邦が将来、項羽にとって最大の脅威となると見抜いていた。そのため、この「鴻門の会」を、劉邦を合法的に抹殺できる唯一無二の絶好の機会だと考えていた。項羽がこの機会を逸したことで、范増は、虎を野に放つようなものであり、いずれ劉邦が力をつけて反撃し、自分たちが逆に滅ぼされるだろうと、戦略的に予測したのである。彼の予言は、感情的なものではなく、冷徹な戦略的判断に基づいている。

【覚えておきたい知識】

重要単語

背景知識:鴻門の会(こうもんのかい)

出典は『史記』項羽本紀。本文は、そのクライマックスである劉邦の脱出シーン。樊噲の乱入と弁舌によって場の空気が変わり、劉邦はその隙をついて席を立ち、挨拶もせずに陣営から脱出する。この劉邦の決断力と、それを見逃してしまった項羽の甘さ、そしてその致命的な過ちを的確に見抜いていた参謀・范増の絶望が劇的に描かれる。范増が予言した通り、この後、力を盛り返した劉邦によって項羽は滅ぼされ、范増らもその虜(あるいはそれ以前に死)となる。まさに天下の運命を決定づけた場面である。

レベル:共通テスト発展|更新:2025-07-26|問題番号:130