103(『史記』廉頗藺相如列伝 より 完璧)

本文

秦王坐章台見相如。相如奉璧奏秦王。秦王大喜、伝以示美人及左右。左右皆呼万歳。相如視秦王無意償趙城、乃前曰、「(1)璧有瑕。請指示王。」王授璧。相如因持璧、却立、倚柱、怒髪上衝冠。謂秦王曰、「大王欲得璧、使人発書至趙王。趙王悉召群臣議、皆曰、『秦貪、負其彊、以空言求璧。償城恐不可得。』…(中略)…臣観大王無意償趙城邑。故臣復取璧。(2)大王必欲急臣、臣頭今与璧倶砕於柱矣。」相如持其璧、睨柱、欲以撃柱。秦王恐其破璧、乃辞謝、固請。召有司案図、指从此以往十五都予趙。相如度秦王特以詐詳為予趙城、実不可得、乃謂秦王曰、「…(中略)…(3)今大王亦宜斎戒五日、設九賓於廷、臣乃敢上璧。」秦王度之、終不可彊奪、遂許斎五日。

【書き下し文】
秦王、章台(しょうだい)に坐(ざ)して相如(しょうじょ)に見(まみ)ゆ。相如、璧(へき)を奉(ほう)じて秦王に奏(そう)す。秦王大(おほ)いに喜び、伝へて以て美人及び左右に示す。左右皆万歳を呼ぶ。相如、秦王に趙に城を償(つぐな)ふ意(こころ)無きを視(み)、乃(すなは)ち前(すす)みて曰く、「(1)璧に瑕(きず)有り。請(こ)ふ、王に之を指し示さん。」と。王、璧を授く。相如、因(よ)りて璧を持ち、却立(きゃくりつ)し、柱に倚(よ)り、怒髪(どはつ)天を衝(つ)きて冠(かんむり)を上(あ)ぐ。秦王に謂(い)ひて曰く、「大王、璧を得んと欲し、人をして書を発して趙王に至らしむ。趙王、悉(ことごと)く群臣を召して議(ぎ)せしむるに、皆曰く、『秦は貪(どん)にして、其の彊(きょう)に負(たの)み、空言(くうげん)を以て璧を求む。償城(しょうじょう)は恐らくは得べからず。』と。…(中略)…臣、大王の趙に城邑(じょうゆう)を償ふ意無きを観る。故に臣、復(ま)た璧を取る。(2)大王必ず臣に急(せま)らんと欲せば、臣が頭(かうべ)は今、璧と倶(とも)に柱に砕けん。」と。相如、其の璧を持ち、柱を睨(にら)み、以て柱に撃ちつけんと欲す。秦王、其の璧を破らんことを恐れ、乃ち辞謝(じしゃ)し、固く請ふ。有司(ゆうし)を召して図を案(あん)じ、此(ここ)より以往(いおう)の十五都(と)を趙に予ふと指さす。相如、秦王の特(た)だ詐(いつは)りて詳(いつは)りて趙に城を予へんと為(な)すを以て、実に得べからずと度(はか)り、乃ち秦王に謂ひて曰く、「…(中略)…(3)今、大王も亦(ま)た宜(よろ)しく斎戒(さいかい)すること五日、九賓(きゅうひん)を廷に設け、臣乃ち敢へて璧を上(たてまつ)るべし。」と。秦王之を度り、終(つひ)に彊(し)ひて奪ふべからず、遂に五日斎戒することを許す。

【現代語訳】
秦王は章台に座って藺相如に会った。藺相如は璧を奉じて秦王に献上した。秦王は非常に喜び、璧を回しては美人や側近たちに見せた。側近たちは皆、万歳と叫んだ。藺相如は、秦王に趙へ城を償う気持ちがないことを見てとり、そこで進み出て言った。「(1)この璧には少し傷がございます。どうか王にそれをお指し示しさせてください。」と。王が璧を手渡した。藺相如はすかさず璧を手に取ると、後ずさりして柱を背にし、あまりの怒りに髪の毛が逆立って冠を突き上げるほどの気迫で立った。そして秦王に向かって言った、「大王は璧が欲しくて、趙王に手紙を送られました。趙王は家臣を集めて協議させましたが、皆が『秦は貪欲で、強国であることにまかせ、口先だけで璧を要求している。約束の城が得られるとは思えない』と言いました。…(中略)…私は、大王に趙へ城を償うお気持ちがないことを見抜きました。だからこそ、私は璧を取り返したのです。(2)もし大王がどうしても私に無理強いをなさるおつもりなら、私の頭は今すぐ、この璧と共に柱に叩きつけられて粉々になるでしょう。」と。藺相如は璧を持ったまま、柱をにらみつけ、今にも撃ちつけようとした。秦王は璧が砕かれるのを恐れて、そこで言葉を和らげて詫び、しきりに頼んだ。役人を呼んで地図を調べさせ、ここからあちらの十五の都市を趙に与えようと指し示した。藺相如は、秦王がただ口先だけで趙に城を与えるふりをしているだけで、実際には手に入らないだろうと推察し、そこで秦王に言った、「…(中略)…(3)今、大王も同様に五日間斎戒し、九賓の礼(最も丁重な儀式)を宮廷で執り行ってくだされば、その時こそ私は璧を献上いたしましょう。」と。秦王は(状況を)推し量り、結局、力ずくで奪うことはできないと判断し、とうとう五日間斎戒することを承諾した。

【設問】

問1 傍線部(1)「璧有瑕。請指示王」という藺相如の発言の真意として、最も適当なものを次から選べ。

  1. 本当に璧に傷があり、秦王に正直に伝えようとした。
  2. 秦王の璧に対する鑑定眼を試そうとした。
  3. 璧を取り返すための口実として、とっさに嘘をついた。
  4. 璧の価値を少し下げることで、秦王の要求を和らげようとした。
【解答・解説】

正解:3

藺相如は「秦王に趙に城を償ふ意無きを視」て、このままでは璧をだまし取られるだけだと判断した。そこで、璧を取り返すための方便として、とっさに「璧に傷がある」という嘘をつき、秦王の警戒心を解いて璧を自分の手に戻させたのである。これは彼の機転と知略を示す行動である。

問2 傍線部(2)「大王必欲急臣、臣頭今与璧倶砕於柱矣」という藺相如の脅しが、秦王に対して効果的であった最大の理由は何か。次から選べ。

  1. 藺相如が死ぬことで、趙との全面戦争になることを秦王が恐れたから。
  2. 秦王が、何よりもまず璧が無傷で手に入ることを望んでいたから。
  3. 藺相如の鬼気迫る様子に、秦王が本気で身の危険を感じたから。
  4. 使者を死なせては、大国としての体面が傷つくと秦王が考えたから。
【解答・解説】

正解:2

この脅しに対し、直後に「秦王恐其破璧(秦王、其の璧を破らんことを恐れ)」と明確に書かれている。秦王の最大の目的は、名宝である「和氏の璧」を手に入れることである。藺相如の脅しは、もし自分に無理強いすれば、その最大の目的(璧の確保)が永遠に失われる、という状況を作り出した。これにより、秦王は強硬手段に出られなくなり、交渉に応じざるを得なくなったのである。

問3 傍線部(3)「今大王亦宜斎戒五日、設九賓於廷、臣乃敢上璧」という藺相如の提案の、戦略的な狙いは何か。最も適当なものを次から選べ。

  1. 秦王に、趙王と同じレベルの敬意を払わせることで、国家としての対等な立場を確保するため。
  2. 時間稼ぎをし、その間に璧を趙の国へ密かに送り返すため。
  3. 儀式の準備という口実で、秦王が本当に城を割譲する気があるかを見極めるため。
  4. 上記のすべて。
【解答・解説】

正解:4

この提案は、複数の狙いを持つ極めて巧妙な一手である。まず、趙王が斎戒したことを引き合いに出し、秦王にも同等の儀礼を要求することで、趙の国家としての尊厳を守っている(1)。次に、五日間という猶予期間を作ることで、璧を国へ送り返す時間を稼ぐという、最も重要な実利的側面がある(2)。さらに、この要求に対して秦王がどう出るかを見ることで、その誠意を試す意味合いも持つ(3)。したがって、これらすべての狙いを内包した選択肢4が最も適当である。

【覚えておきたい知識】

重要単語

背景知識:完璧(かんぺき)

出典は司馬遷の『史記』「廉頗藺相如列伝」。秦の昭王が、趙の恵文王が持つ名宝「和氏の璧」を、十五の城と交換しようと持ちかけた。しかし強大な秦が約束を守る保証はなく、趙は使者の人選に窮する。この時、一介の食客であった藺相如が抜擢され、秦へ赴いた。本問は、秦王が約束を破ろうとした際、藺相如が知恵と度胸で璧を無事守り抜く場面である。この故事から、欠点がなく完全に整っていることを「完璧」と言うようになった。この後の、藺相如と名将・廉頗の「刎頸の交わり」の逸話も有名である。

レベル:共通テスト標準~発展|更新:2025-07-26|問題番号:103