121(『史記』項羽本紀 より 鴻門の会(樊噲の登場))

本文

於是張良至軍門、見樊噲。樊噲曰、「今日之事何如。」良曰、「甚急。今者項荘抜剣舞、其意常在沛公也。」噲曰、「此迫矣。(1)臣請入、与之同命。」
噲即帯剣擁盾入軍門。…(中略)…瞋目視項王、頭髮上指、目眦尽裂。項王按剣而跽曰、「客何為者。」張良曰、「沛公之参乗樊噲者也。」項王曰、「(2)壮士。賜之卮酒。」則与斗卮酒。噲拝謝、起、立而飲之。項王曰、「賜之彘肩。」則与一生彘肩。樊噲覆其盾於地、加彘肩上、抜剣切而啗之。
項王曰、「壮士。能復飲乎。」樊噲曰、「臣死且不避、卮酒安足辞。夫秦王有虎狼之心、殺人如不能挙、刑人如恐不勝、天下皆叛之。懐王与諸将約曰、『先破秦入咸陽者、王之。』今沛公先破秦入咸陽、毫毛不敢有所近、…(中略)…(3)大王不聴、今又誅有功之人、此亡秦之続耳。窃為大王不取也。」項王未有以応。

【書き下し文】
是(ここ)に於(お)いて張良(ちょうりょう)、軍門(ぐんもん)に至り、樊噲(はんかい)に見(まみ)ゆ。樊噲曰く、「今日の事、何如(いかん)。」と。良曰く、「甚(はなは)だ急なり。今者(いま)、項荘(こうそう)、剣を抜き舞ふ、其の意(い)、常に沛公(はいこう)に在るなり。」と。噲曰く、「此れ迫(せま)れり。(1)臣請(こ)ふ、入りて、之と命を同じうせん。」と。
噲、即ち剣を帯び盾を擁(よう)して軍門に入る。…(中略)…目を瞋(いか)らして項王を視るに、頭髮(とうはつ)上指(じょうし)し、目眦(もくし)尽(ことごと)く裂く。項王、剣に按(あん)じて跽(ひざまず)きて曰く、「客(かく)は何為(なに)する者ぞ。」と。張良曰く、「沛公の参乗(さんじょう)、樊噲なる者なり。」と。項王曰く、「(2)壮士(そうし)なり。之に卮酒(ししゅ)を賜(たま)へ。」と。則ち斗卮(とし)の酒を与ふ。噲、拝謝(はいしゃ)し、起(た)ちて、立ちながらにして之を飲む。項王曰く、「之に彘肩(ていけん)を賜へ。」と。則ち一生(いっせい)の彘肩を与ふ。樊噲、其の盾を地に覆(ふ)せ、彘肩を上に加へ、剣を抜き切りて之を啗(くら)ふ。
項王曰く、「壮士よ、能く復(ま)た飲むか。」と。樊噲曰く、「臣、死すら且(まさ)に避けず、卮酒、安(いづく)んぞ辞するに足らん。夫(そ)れ秦王は虎狼(ころう)の心有り、人を殺すこと挙(あ)ぐる能(あた)はざるがごとくし、人を刑すること勝(た)へざるを恐るるがごとくし、天下皆之に叛(そむ)けり。懐王(かいおう)、諸将と約して曰く、『先づ秦を破りて咸陽(かんよう)に入る者は、之に王とせん。』と。今、沛公、先づ秦を破りて咸陽に入るも、毫毛(ごうもう)も敢へて近づくる所有らず、…(中略)…(3)大王聴かず、今又(ま)た功有るの人を誅(ちゅう)するは、此れ亡秦(ぼうしん)の続(ぞく)なるのみ。窃(ひそ)かに大王の為に取らざるなり。」と。項王、未(いま)だ以て応ふる有らず。

【現代語訳】
そこで張良は陣営の門まで行き、樊噲に会った。樊噲は「今日の様子はどうか。」と尋ねた。張良は「非常に危険な状況だ。たった今、項荘が剣を抜いて舞っているが、その狙いは常に沛公(劉邦)にある。」と言った。樊噲は「これは切迫している。(1)私が入って、沛公と運命を共にしよう。」と言った。
樊噲はすぐに剣を身につけ盾を抱えて陣門に押し入った。…(中略)…(中に入ると)目をかっと見開いて項羽をにらみつけると、髪の毛は逆立ち、まなじりはことごとく裂けんばかりであった。項羽は(思わず)剣の柄に手をかけて身構え、「そなたは何者だ。」と言った。張良が「沛公の護衛の樊噲という者です。」と答えた。項羽は言った、「(2)立派な男だ。こいつに大杯の酒をやれ。」と。そこで一斗入りの大杯の酒を与えた。樊噲は礼を述べて拝礼し、立ち上がると、立ったままそれを飲み干した。項羽は「豚の肩肉をやれ。」と言った。そこで生のままの豚の肩肉を一つ与えた。樊噲は盾を地面に伏せて置き、その上に肩肉を乗せ、剣を抜いて切り刻んで、それを食べた。
項羽は「立派な男だ。まだ飲めるか。」と言った。樊噲は言った、「私は死さえも避けませんのに、一杯の酒をどうして断りましょうか。そもそも秦王は虎や狼のような残忍な心を持ち、数えきれないほど人を殺し、際限なく人を罰したので、天下の誰もが彼に背きました。懐王は諸将と『最初に秦を破って咸陽に入った者を、そこの王とする』と約束されました。今、沛公は最初に秦を破って咸陽に入りましたが、少しも私物化しようとはせず、…(中略)…(3)(忠告を聞き入れず)今また功績のあった人物を罰するというのは、これは滅びた秦のやり方を続けるにすぎません。ひそかに大王のために、そのようなやり方はお取りにならない方がよいと思います。」と。項羽は、これに答える言葉がなかった。

【設問】

問1 傍線部(1)「臣請入、与之同命」という樊噲の言葉から最も強く感じられるものは何か。次から選べ。

  1. 自分の武勇に対する絶対的な自信。
  2. 主君である劉邦と運命を共にするという、決死の覚悟と忠誠心。
  3. 項羽の軍勢に対する、激しい怒りと敵対心。
  4. 絶体絶命の状況に陥ったことへの、深い絶望感。
【解答・解説】

正解:2

「之と命を同じうせん」とは、「彼(沛公)と命を同じくしよう」という意味である。主君が殺されようとしている危機的状況を知った樊噲が、自らの命を顧みず、たとえ共に死ぬことになっても主君を守るために飛び込もうとする、その決死の覚悟と、主君への絶対的な忠誠心を示す言葉である。

問2 傍線部(2)「壮士。賜之卮酒」という項羽の反応は、彼のどのような性格を物語っているか。最も適当なものを次から選べ。

  1. 敵の意表を突く行動で、相手の気勢をそぐのが得意な性格。
  2. 度量の大きさを見せつけることで、敵の武将を味方に引き入れようとする性格。
  3. 敵味方を問わず、勇気ある猛々しい振る舞いを高く評価する、武人らしい性格。
  4. 酒や食事を与えることで、相手を油断させ、本心を探ろうとする、策略家としての性格。
【解答・解説】

正解:3

樊噲は、無礼にも宴席に乱入し、項羽を睨みつけた。普通ならば即座に斬り捨てられてもおかしくない状況である。しかし、項羽は彼のその凄まじい気迫と勇気を「壮士(立派な男だ)」と称賛し、褒美として酒と肉を与えた。これは、項羽が敵であっても、勇猛な武人に対しては敬意を払う、根っからの武人であったことを示すエピソードである。

問3 傍線部(3)「窃為大王不取也」という樊噲の言葉は、どのような論法で項羽を説得しようとしているか。最も適当なものを次から選べ。

  1. 項羽をおだてることで、その場の危機を回避しようとする論法。
  2. 劉邦を殺すことは、滅びた秦と同じ過ちを犯すことであり、項羽自身のためにならないと説く論法。
  3. 劉邦を殺せば、自分たちが全力で項羽に復讐するという、脅しの論法。
  4. 劉邦を許せば、天下の人民が項羽の徳を称賛するだろうと説く論法。
【解答・解説】

正解:2

樊噲は、劉邦の功績を述べた上で、功ある者を罰するのは「亡秦の続(滅びた秦の二の舞)」だと断じている。そして、「大王の為に取らざるなり(大王ご自身のために、そのようなやり方はお取りにならない方がよい)」と結んでいる。これは、劉邦を殺すことが道義に反するだけでなく、覇者を目指す項羽自身の利益にも反する愚かな行為である、という論理で説得しようとするものである。相手の利益を考えるふりをしながら、自らの主張を通す、高度な弁論術である。

【覚えておきたい知識】

重要単語

背景知識:鴻門の会(こうもんのかい)

出典は『史記』項羽本紀。秦の滅亡後、項羽と劉邦が天下の覇権を争った「楚漢戦争」の序盤における、最も有名な逸話の一つ。宴席で劉邦の暗殺が企てられるという絶体絶命の状況で、張良の機転と、この樊噲の命がけの乱入・弁舌によって、劉邦は九死に一生を得る。樊噲の豪胆さと、それを称賛する項羽の器の大きさ、そして樊噲の単なる武勇だけでなく、的確な論理で項羽をやりこめる弁舌の才も描かれている、劇的な名場面である。

レベル:共通テスト発展|更新:2025-07-26|問題番号:121