119(『荘子』斉物論 より 胡蝶の夢)
本文
昔者、荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。(1)自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。(2)周与胡蝶、則必有分矣。(3)此之謂物化。
【書き下し文】
昔者(むかし)、荘周(そうしゅう)、夢に胡蝶(こちょう)と為(な)る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。(1)自(みづか)ら喩(たの)しみて志(こころ)に適(かな)へるかな。周なるを知らざるなり。俄然(がぜん)として覚(さ)むれば、則(すなは)ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。(2)周と胡蝶とは、則ち必ず分(ぶん)有らん。(3)此(こ)れを之(こ)れ物化(ぶっか)と謂(い)ふ。
【現代語訳】
【設問】
問1 傍線部(1)「自喩適志与。不知周也」の記述が、この話の後の展開にとって重要な意味を持つのはなぜか。最も適当なものを次から選べ。
- 夢の中での体験が、単なるぼんやりした夢ではなく、完全に蝶になりきった「もう一つの現実」であったことを示しているから。
- 夢の中の蝶としての生活が、現実の荘周としての生活よりも、はるかに幸福であったことを示しているから。
- 荘周が、現実逃避の願望を強く抱いていたことを示しているから。
- 蝶になるという夢が、荘周のその後の思想に大きな影響を与えたことを示しているから。
【解答・解説】
正解:1
この話の核心は、目覚めた後に「どちらが本当の自分なのか」という疑問が生じる点にある。その疑問が生じるためには、夢の中の体験が、現実と区別がつかないほどリアルで、完全なものでなければならない。「自ら喩しみて志に適へる」「周なるを知らざる」という記述は、夢の中の「蝶」としての自己意識が完璧であり、そこには荘周としての意識が全く入り込む余地がなかったことを強調している。この夢の完全な現実性こそが、目覚めた後の現実の確実性を揺るがす原因となるのである。
問2 傍線部(2)「周与胡蝶、則必有分矣」と、常識的な区別をあえて認める一文を挿入した筆者の意図は何か。最も適当なものを次から選べ。
- 夢と現実の混同から我に返り、やはり両者は違うという結論に至ったことを示すため。
- 常識的な区別の存在を認めた上で、それを超えた「物化」という視点を提示し、その哲学的な深さを強調するため。
- 読者が、筆者を単なる夢想家や狂人だと思わないように、配慮したため。
- 荘周と蝶の具体的な違いを列挙することで、両者の区別がいかに自明であるかを再確認するため。
【解答・解説】
正解:2
この一文は、話の流れに逆らうように、常識的な区別を肯定している。これは、荘子が単に夢と現実の区別がつかない混乱した状態にあるのではなく、常識的な区別(分)を理解した上で、さらにその先にある哲学的真理(物化)を語ろうとしていることを示している。常識を一度認めることで、それを超える「物化」という概念の深さと重要性を、より効果的に読者に提示する、巧みなレトリックである。
問3 傍線部(3)「此之謂物化」という結論が示す、荘子の根本的な世界観として最も適当なものを次から選べ。
- 個別の存在(物)は、固定的な実体を持つのではなく、絶えず変化(化)し、流転するプロセスそのものであるという世界観。
- 全ての物は、目に見えない霊的な力によって、別の物に姿を変えることがあるという世界観。
- 人間は、精神の力によって、自らの肉体を他の生物に変化させることができるという世界観。
- 個々の物は、より完全な存在へと進化していく過程にあるという世界観。
【解答・解説】
正解:1
「物化」とは、万物の変化、流転のこと。荘周が蝶になり、蝶が荘周になるかもしれない、という体験は、我々が普段「荘周」や「蝶」と呼んでいる固定的な実体が、実は絶対的なものではないことを示唆している。荘子の思想では、万物は根源的な「道(タオ)」の流転の一時的な現れにすぎず、その本質は絶え間ない変化(化)そのものにある。この世界観を「物化」という言葉で集約している。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 荘周(そうしゅう):荘子の本名。ここでは荘子自身を指す。
- 胡蝶(こちょう):蝶。
- 栩栩然(くくぜん):生き生きとして楽しそうなさま。
- 喩(たの)しむ:楽しむ、喜ぶ。
- 俄然(がぜん):にわかに、突然。
- 覚(さ)む:目が覚める。
- 蘧蘧然(きょきょぜん):はっきりしているさま。夢から覚めた現実の自分を指す。
- 分(ぶん):区別、違い。
- 物化(ぶっか):万物がとどまることなく変化していくこと。道家の重要な思想。
背景知識:胡蝶の夢(こちょうのゆめ)・物化
出典は『荘子』斉物論篇。「斉物論」とは、「万物は本質的に斉(ひと)しい」と論じる篇であり、荘子思想の核心部分である。この「胡蝶の夢」は、その思想を最も象徴的に表した寓話として知られる。荘子は、人間が作り出した言葉や常識による区別(例:自分と他人、生と死、夢と現実)は相対的なものでしかないと考えた。この話は、自己と他者、主観と客観の区別さえもが絶対ではないことを示し、そうした区別から解放された自由な精神のあり方(=逍遥遊)を理想とする。人生のはかなさのたとえとして使われることもあるが、本来はより深い哲学的な問いかけを含んでいる。