118(『史記』廉頗藺相如列伝 より 完璧(続))

本文

相如度秦王雖斎、(1)決負約不償城。乃使其従者、衣褐、懐其璧、従間道亡、帰璧於趙。
秦王斎五日後、設九賓於廷、引趙使者藺相如。相如至、曰、「秦自繆公以来二十余君、未嘗有堅明約束者也。臣誠恐見欺於王而負趙、故令人持璧帰、間至趙矣。…(中略)…(2)臣知欺大王之罪当誅。臣請就湯鑊。唯大王与群臣孰計議之。」
秦王与群臣相視而嘻。左右或欲引相如去、秦王因曰、「今殺相如、終不能得璧、而絶秦・趙之驩。不如因而厚遇之、使帰趙。趙王豈以一璧之故、欺秦邪。」卒廷見相如、畢礼而帰之。

【書き下し文】
相如(しょうじょ)、秦王(しんのう)、斎(さい)すと雖(いへど)も、(1)決(けっ)して約(やく)に負(そむ)きて城を償(つぐな)はじと度(はか)る。乃(すなは)ち其の従者(じゅうしゃ)をして、褐(かつ)を衣(き)、其の璧を懐(いだ)き、間道(かんどう)より亡(に)げ、璧を趙に帰さしむ。
秦王、斎すること五日の後、九賓(きゅうひん)を廷に設け、趙の使者藺相如を引(ひ)く。相如至りて、曰く、「秦は繆公(ぼくこう)より以来(このかた)二十余君(よくん)、未(いま)だ嘗(かつ)て堅く約束を明(あき)らかにする者有らざるなり。臣、誠に王に欺かれて趙に負かんことを恐る。故に人をして璧を持して帰らしめ、間(ひそ)かに趙に至れり。…(中略)…(2)臣、大王を欺くの罪、誅(ちゅう)に当たるを知る。臣請(こ)ふ、湯鑊(とうかく)に就かん。唯(た)だ大王、群臣と孰(つらつら)計議(けいぎ)せよ。」と。
秦王と群臣と相(あひ)視(み)て嘻(き)す。左右或いは相如を引きて去らんと欲す。秦王因(よ)りて曰く、「今、相如を殺すとも、終(つひ)に璧を得ること能はず、而(して)秦・趙の驩(かん)を絶たん。(3)因りて之を厚遇し、趙に帰さしむるに如(し)かず。趙王、豈(あ)に一璧の故を以て、秦を欺かんや。」と。卒(つひ)に廷にて相如に見(まみ)え、礼を畢(を)へて之を帰す。

【現代語訳】
藺相如は、秦王が(約束通り)斎戒はしているものの、(1)きっと約束を破って城を償う気はないだろうと推察した。そこで、お供の者に、みすぼらしい服を着せ、璧を懐に入れさせて、裏道から逃がし、璧を趙の国へ持ち帰らせた。
秦王は、五日間の斎戒の後、宮廷で九賓の礼を設け、趙の使者である藺相如を招き入れた。藺相如が参上して言った、「秦は、繆公以来二十人あまりの君主がおりましたが、いまだかつて固く約束を守った方はいらっしゃいません。私は、王にだまされて趙の国にそむくことになるのを、心から恐れました。そこで、人をやって璧を持って帰らせ、今頃はもう趙に着いております。…(中略)…(2)私が大王をだました罪が、死刑に当たることは承知しております。どうか私を釜茹での刑に処してください。ただ、大王と群臣の皆様で、よくよくご相談ください。」と。
秦王と群臣は、顔を見合わせてあっけにとられて声を出した。側近のある者が藺相如を引き立てて行こうとした。秦王はそれを制して言った、「今、藺相如を殺したところで、結局璧は手に入らず、その上、秦と趙の友好関係を断つことになる。(3)それよりは、いっそ彼を手厚くもてなし、趙に帰してやるのが一番良い。趙王が、たかが一つの璧のために、大国である秦をだますようなことがあろうか(いや、ないだろう)。」と。そして、とうとう宮廷で藺相如に正式に会い、儀礼をすべて終えてから、彼を国へ帰したのである。

【設問】

問1 傍線部(1)「決負約不償城」と藺相如が判断した根拠として、本文から最も強く推測されるものを次から選べ。

  1. 秦のこれまでの歴史と、最初の謁見での秦王の態度。
  2. 秦王が斎戒を行っている間の、臣下たちの不審な動き。
  3. 趙の国に残してきた、味方からの密告。
  4. 占いによって、秦王が嘘をついていることを見抜いたから。
【解答・解説】

正解:1

藺相如は、秦王を前にした最後の弁明で「秦は繆公より以来二十余君、未だ嘗て堅く約束を明らかににする者有らざるなり」と、秦の歴代君主が約束を守らなかった歴史を指摘している。これに加えて、前段(問題103)で描かれた、秦王が璧を手にした時の軽々しい態度(美人に見せびらかす等)から、今回も約束が守られる保証はないと判断したと考えられる。

問2 傍線部(2)「臣請就湯鑊」という藺相如の言葉の真の狙いは何か。最も適当なものを次から選べ。

  1. 自らの命を差し出すことで、趙の国への忠誠心を示し、潔く罪を償うため。
  2. 「死」を覚悟しているという毅然とした態度を示すことで、秦王を気圧し、交渉の主導権を握るため。
  3. 自分を殺すか生かすかという選択を秦王に突きつけ、秦王の度量を試すため。
  4. もし自分を殺せば秦は趙との友好関係を失う、という政治的損失を秦王に意識させるため。
【解答・解説】

正解:4

藺相如は、ただ死を覚悟しているだけではない。「唯大王与群臣孰計議之(ただ大王と群臣でよくよく相談せよ)」と、自分を殺すことの政治的なメリット・デメリットを冷静に計算するよう促している。璧が既にない今、自分を殺せば、秦は使者を殺したという汚名と、趙との国交断絶という実害を被るだけである。このことを秦王に自覚させ、「殺しても得はない」という判断に導くことが、彼の真の狙いである。

問3 傍線部(3)「不如因而厚遇之、使帰趙」という秦王の最終判断の理由として、最も適当なものを次から選べ。

  1. 藺相如の命を懸けた忠誠心に、心から感動したから。
  2. 藺相如を殺しても璧は手に入らず、趙との関係が悪化するだけだという、冷静な損得勘定。
  3. 藺相如を手厚く送り返せば、趙王が恐縮して璧を再び献上してくるだろうという期待。
  4. 大勢の臣下の前で、度量の狭い君主だと思われたくなかったから。
【解答・解説】

正解:2

秦王のセリフに「今相如を殺すとも、終に璧を得ること能はず、而て秦・趙の驩を絶たん」と明確に書かれている。これは、藺相如を殺すことのデメリット(璧は手に入らず、外交関係は断絶)を冷静に分析した結果である。その上で、「如かず(~するのが一番良い)」という比較形を用いて、彼を生かして帰すことが最も合理的(=損失が少ない)であると判断している。これは感情論ではなく、現実的な損得勘定に基づいた決断である。

【覚えておきたい知識】

重要句法

重要単語

背景知識:完璧(かんぺき)

出典は司馬遷の『史記』「廉頗藺相如列伝」。藺相如は、秦王との最初の対決で璧を取り戻した後、この本文の通り、秦王の約束不履行を予期し、密かに璧を本国へ送り返した。そして、璧がなくなった後の交渉の場で、再び命がけの弁舌をふるって、秦王に自分の殺害を断念させ、無事に趙へ生還した。この「璧を完(まっと)うして帰る」という功績から、「完璧」という言葉が生まれた。知恵と勇気、そして胆力を兼ね備えた、古代最高の外交官の一人として称えられている。

レベル:共通テスト発展|更新:2025-07-26|問題番号:118