117(『孟子』公孫丑上 より 惻隠の心)

本文

(孟子曰、)「所以謂人皆有不忍人之心者、(1)今人乍見孺子将入於井、皆有怵惕惻隠之心。非所以内交於孺子之父母也、非所以要誉於郷党朋友也、非悪其声而然也。
由是観之、無惻隠之心、非人也。無羞悪之心、非人也。無辞譲之心、非人也。無是非之心、非人也。
惻隠之心、仁之端也。羞悪之心、義之端也。辞譲之心、礼之端也。是非之心、智之端也。(2)人之有是四端也、猶其有四体也。有是四端而自謂不能者、自賊者也。…(中略)…凡有四端於我者、知皆拡而充之矣。(3)若火之始然、泉之始達。苟能充之、足以保四海。苟不充之、不足以事父母。」

【書き下し文】
(孟子曰く、)「人の皆人に忍びざるの心有りと謂(い)ふ所以(ゆゑん)の者は、(1)今、人、乍(たちま)ち孺子(じゅし)の将(まさ)に井(せい)に入(い)らんとするを見れば、皆怵惕(じゅくてき)惻隠(そくいん)の心有り。孺子の父母に内交(ないこう)せんが為(ため)に非(あら)ざるなり、郷党(きょうとう)朋友(ほうゆう)に誉(ほまれ)を要(もと)めんが為に非ざるなり、其の声を悪(にく)んで然(しか)るに非ざるなり。
是(これ)に由(よ)りて之を観(み)れば、惻隠の心無きは、人に非(あら)ざるなり。羞悪(しゅうお)の心無きは、人に非ざるなり。辞譲(じじょう)の心無きは、人に非ざるなり。是非(ぜひ)の心無きは、人に非ざるなり。
惻隠の心は、仁(じん)の端(たん)なり。羞悪の心は、義(ぎ)の端なり。辞譲の心は、礼(れい)の端なり。是非の心は、智(ち)の端なり。(2)人の是(こ)の四端(したん)有るは、猶(な)ほ其の四体(したい)有るがごときなり。是の四端有りて自ら能(あた)はずと謂ふ者は、自ら賊(そこな)ふ者なり。…(中略)…凡(およ)そ我に四端有る者は、皆拡(ひろ)げて之を充(み)たすことを知る。(3)火の始めて然(も)え、泉の始めて達(たっ)するが若(ごと)し。苟(いやしく)も能く之を充たさば、以て四海(しかい)を保(やす)んずるに足る。苟も之を充たさずんば、以て父母に事(つか)ふるに足らず。」と。

【現代語訳】
(孟子は言った、)「なぜ、人は誰でも他人の不幸を見過ごしにできない心を持っていると言えるのか。それは、(1)今、仮に人が、幼子が井戸に落ちそうになっているのを突然見かけたら、誰でもはっと驚き、可哀想に思う心を持つからだ。それは、その子の親と親しくなろうとするためではないし、村人や友人に良い評判を得ようとするためでもないし、(助けなかった場合に非難されるという)悪い評判を嫌ってそうするわけでもない。
このことから考えてみると、哀れに思う心がない者は、人間ではない。悪を恥じ憎む心がない者は、人間ではない。譲り合う心がない者は、人間ではない。善悪を判断する心がない者は、人間ではない。
この哀れに思う心は、「仁」の芽生えである。悪を恥じ憎む心は、「義」の芽生えである。譲り合う心は、「礼」の芽生えである。善悪を判断する心は、「智」の芽生えである。(2)人がこの四つの芽生えを持っているのは、ちょうど手足の四肢を持っているのと同じようなものだ。この四つの芽生えを持っているのに、自分には徳を実践できないと言う者は、自分自身を損なう者である。…(中略)…およそ、自分の中にこの四つの芽生えを持っている者は、皆それを押し広げて満たすべきだと知っている。(3)それは、ちょうど火が燃え始め、泉が湧き出し始めたようなものだ。もしこの芽生えを十分に満たすことができるなら、天下を安泰にさせるのに十分である。もしこれを満たすことができなければ、自分の父母に仕えることさえもできないだろう。」と。

【設問】

問1 傍線部(1)の思考実験で、孟子が「怵惕惻隠之心」が利己的な動機に基づかないことを証明するために、否定している動機として本文に挙げられていないものを次から選べ。

  1. 子供の親との交際目的。
  2. 世間からの称賛目的。
  3. 見殺しにした際の悪評回避。
  4. 子供に対する純粋な愛情。
【解答・解説】

正解:4

孟子は、「怵惕惻隠之心」が起こる理由として、利己的な動機ではないことを強調するために、「非所以内交於孺子之父母也(親との交際目的ではない)」「非所以要誉於郷党朋友也(称賛目的ではない)」「非悪其声而然也(悪評回避ではない)」と、選択肢1,2,3に当たる内容を明確に否定している。選択肢4の「子供に対する純粋な愛情」こそが、孟子が証明しようとしている、利己的な動機を排した後に残る本来の心(=惻隠の心)である。

問2 傍線部(2)「人之有是四端也、猶其有四体也」という孟子のたとえは、「四端」が人間にとってどのようなものであることを示しているか。最も適当なものを次から選べ。

  1. 誰もが生まれながらにして、例外なく備えている本質的な部分であること。
  2. 手足と同じように、意識しなくても自然に機能するものであること。
  3. 手足と同じように、鍛えなければ衰えてしまうものであること。
  4. 手足と同様に、人間が動物と区別されるための、最も重要な特徴であること。
【解答・解説】

正解:1

「四体(四肢)」は、人間であれば誰でも生まれつき持っている、最も基本的で普遍的な身体の一部である。孟子は、「四端」をこの「四体」にたとえることで、仁義礼智の芽生えもまた、人間であれば誰もが生まれながらに備えている、本質的で普遍的な心の機能であることを主張している。だからこそ、「四端」がない者は「人に非ず」とまで断言できるのである。

問3 傍線部(3)「若火之始然、泉之始達」というたとえを通して、孟子が「四端」を持つ人々に訴えかけていることは何か。最も適当なものを次から選べ。

  1. 四端は誰でも持っているが、それはまだ小さな芽生えに過ぎないので、意識的に育て、大きく発展させていく努力が必要である。
  2. 四端は火や水のように強力なエネルギーなので、暴走しないように常に抑制し、コントロールしなければならない。
  3. 四端は火や水のように自然に湧き出てくるものなので、何もしなくてもいずれは完成された徳になる。
  4. 四端は火や水のように貴重なものなので、決して失うことのないよう、大切に守り続けなければならない。
【解答・解説】

正解:1

「火の始めて然え」は小さな火種、「泉の始めて達する」は湧き始めの細い流れである。これらは、それだけではまだ大きな力はないが、燃え広がる炎や尽きない大河になる「可能性」を秘めている。孟子はこのたとえの直後に「苟も能く之を充たさば(もしこれを満たすことができるなら)」と述べ、この「四端」という可能性を、意識的な努力によって「拡げて充たす(押し広げて満たす)」ことの重要性を説いている。生まれつきの善性に安住するのではなく、それを育てる努力を訴えかけているのである。

【覚えておきたい知識】

重要単語

背景知識:性善説(せいぜんせつ)と四端(したん)

出典は『孟子』公孫丑上篇。孟子思想の根幹をなす「性善説」を最も明確に論じた部分である。性善説とは、人間は生まれながらにして善なる本性を持っている、という考え方である。孟子はその証拠として、誰の心にもある「惻隠之心(哀れみの心)」を挙げ、これを「仁」の芽生え()とした。そして同様に、悪を恥じる「羞悪之心」を「義」の端、譲り合う「辞譲之心」を「礼」の端、善悪を判断する「是非之心」を「智」の端とし、これら「四端」を誰もが持っていると主張した。そして、この四つの芽生えを大切に育て、大きく発展させていくことこそが、学問であり、修養であると説いた。

レベル:共通テスト発展|更新:2025-07-26|問題番号:117