115(『史記』項羽本紀 より 四面楚歌の情景)

本文

項王軍壁垓下、兵少食尽。漢軍及諸侯兵、囲之数重。夜聞漢軍皆楚歌、項王乃大驚曰、「漢皆已得楚乎。是何楚人之多也。」項王則夜起、飲帳中。有美人、名虞、常幸従。有駿馬、名騅、常騎之。於是項王乃悲歌慷慨、自為詩曰、
(1)力抜山兮気蓋世
(2)時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
虞兮虞兮奈若何」
歌数闋、(3)美人和之。項王泣数行下。左右皆泣、莫能仰視。

【書き下し文】
項王(こうおう)の軍、垓下(がいか)に壁(へき)すれども、兵は少なく食は尽(つ)く。漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重(すうちょう)なり。夜、漢軍の皆(みな)楚歌(そか)するを聞き、項王乃(すなは)ち大いに驚きて曰く、「漢、皆已(すで)に楚を得たるか。是(こ)れ何ぞ楚人の多きや。」と。項王、則ち夜起(た)ちて、帳中(ちょうちゅう)に飲す。美人有り、名は虞(ぐ)、常に幸(こう)せられて従ふ。駿馬(しゅんめ)有り、名は騅(すい)、常に之に騎(の)る。是(ここ)に於(お)いて項王、乃ち悲歌(ひか)慷慨(こうがい)し、自(みづか)ら詩を為(つく)りて曰く、
(1)力は山を抜き 気は世を蓋(おほ)ふ
(2)時、利あらずして 騅(すい)、逝(ゆ)かず
騅の逝かざるを 奈何(いかん)すべき
虞や虞や 若(なんぢ)を奈何せん」と。
歌ふこと数闋(すうけつ)、(3)美人之に和(わ)す。項王、泣(なみだ)数行(すうこう)下る。左右(さゆう)皆泣き、能(よ)く仰ぎ視(み)るもの莫(な)し。

【現代語訳】
項王の軍は、垓下の城壁に立てこもったが、兵士の数は少なくなり、食料も尽きてしまった。劉邦の漢軍と諸侯の連合軍は、これを幾重にも包囲した。夜、漢軍の陣営から聞こえてくるのが、みな故郷である楚の歌であるのを聞き、項王は非常に驚いて言った、「漢は、もうすっかり楚の地を占領してしまったのか。それにしても、なんと楚の出身者が(漢軍には)多いことか。」と。項王は、夜中に起き上がると、陣幕の中で酒宴を開いた。(項王には)虞という名の美人がいて、常に寵愛を受けてそばに従っていた。騅という名の駿馬がいて、常にそれに乗っていた。この時、項王は悲しげに歌い、いきどおり嘆き、自ら詩を作って言った、
(1)私の力は山を引き抜くほど強く、気迫は世を覆うほどであった。
(2)しかし時の運は私に味方せず、愛馬の騅も前に進もうとしない。
騅が進まないのを、どうすることができようか。
ああ虞よ、虞よ、お前をいったいどうしてやれようか。」と。
歌い終わるのを数回繰り返すと、(3)美人の虞もそれに合わせて歌った。項王の目からは、涙が幾筋も流れ落ちた。周りの者たちも皆泣いて、誰も顔を上げて項王の姿を見ることができなかった。

【設問】

問1 項王の詩は、傍線部(1)と傍線部(2)で対照的な内容を歌っている。この対比によって、項王は自らの現状をどのように捉えているか。最も適当なものを次から選べ。

  1. かつては天下無敵であったが、今は老いて力が衰えてしまったと嘆いている。
  2. 自分自身の圧倒的な武勇は今も健在だが、天運に見放されてどうにもならない状況に陥ったと嘆いている。
  3. 自分の力は強大だが、愛馬や部下たちが自分の意のままに動かなくなったと嘆いている。
  4. かつては天下を覆うほどの気迫があったが、今ではすっかり臆病になってしまったと嘆いている。
【解答・解説】

正解:2

詩の第一句は、今も変わらぬ自身の圧倒的な力を誇示するものである。それに対し、第二句では、自分以外の要因、すなわち「時(天運、時の利)」が味方しないことを嘆いている。この対比は、「自分の能力は完璧だが、運命の力には抗えない」という、彼の悲劇的な自己認識を示している。彼は、自分の敗因を能力の衰えや戦略の失敗ではなく、天運に見放されたことに帰しているのである。

問2 傍線部(3)「美人和之」という虞美人の行動に込められた心情として、最も適当なものを次から選べ。

  1. 項王の悲痛な歌に共感し、その運命を最後まで共にしようという、深い愛情と覚悟。
  2. 自らの歌声で項王を慰め、最後の戦いに向かう気力を奮い立たせようとする、健気な思い。
  3. これが最後の宴になることを悟り、別れの歌を歌ってほしいという項王の願いに応える気持ち。
  4. 項王の詩の素晴らしさに感動し、思わず合わせて歌ってしまったという、芸術的な衝動。
【解答・解説】

正解:1

「和す」とは、相手の歌に唱和すること、調子を合わせることである。項王が絶望的な状況で悲痛な思いを歌にしたとき、虞美人はただ涙するだけでなく、自らも歌を合わせた。これは、項王の悲しみと絶望を我がこととして受け止め、その運命に最後まで寄り添い、共にするという、言葉を超えた強い愛情と覚悟の表明である。

問3 「項王泣数行下。左右皆泣、莫能仰視」という情景描写が、読者に与える印象として最も効果的なものは何か。次から選べ。

  1. 絶対的な覇王が、部下の前で涙を見せるという、人間的な弱さと悲哀。
  2. 主君も部下も一体となって泣くという、楚軍の結束力の強さ。
  3. 英雄の最期を前に、なすすべもなく涙するしかない、部下たちの無力感。
  4. これまで数々の敵を打ち破ってきた項王が、ついに敗北を認めたという、歴史的瞬間の重み。
【解答・解説】

正解:1

この場面の最も劇的な点は、「力は山を抜き、気は世を蓋う」と豪語した天下無敵の英雄・項王が、どうにもならない運命の前で、愛する者たちを思い、涙を流すという点にある。その涙に、歴戦の部下たちももらい泣きし、敬愛する主君の痛ましい姿を直視できない。この描写は、英雄の神話的な強さの裏にある、人間的な弱さ、愛情、悲哀を浮き彫りにし、読者に深い感動と共感を与える効果を持つ。

【覚えておきたい知識】

重要単語

背景知識:四面楚歌(しめんそか)

出典は『史記』項羽本紀。楚の項羽と漢の劉邦が天下を争った最後の戦い「垓下の戦い」での一場面。漢軍に完全に包囲された項羽が、敵陣から故郷である楚の歌が聞こえてくるのを聞き、味方がすべて降伏して敵に回ったと絶望した故事。このことから、周囲をすべて敵に囲まれ、味方が一人もいなくなり孤立無援である状況のたとえとして、「四面楚歌」という言葉が使われる。この場面で作られた項羽の「垓下の歌」は、英雄の最期を飾る悲壮な名詩として知られる。

レベル:共通テスト標準~発展|更新:2025-07-26|問題番号:115