111(『論語』学而 より 学びの喜び)
本文
子曰、「(1)学而時習之、不亦説乎。(2)有朋自遠方来、不亦楽乎。(3)人不知而不慍、不亦君子乎。」
【書き下し文】
子(し)曰(のたま)はく、「(1)学びて時に之(これ)を習ふ、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。(2)朋(とも)有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。(3)人知らずして慍(うら)みず、亦た君子(くんし)ならずや。」と。
【現代語訳】
【設問】
問1 傍線部(1)「学而時習之、不亦説乎」で述べられている「説(喜び)」は、どのような性質のものか。最も適当なものを次から選べ。
- 新しい知識を得て、知的好奇心が満たされる喜び。
- 学んだことを繰り返し復習し、自分のものとして深く理解していく喜び。
- 学問によって高い地位や名声を得ることができるという、将来への期待の喜び。
- 難しい学問をやり遂げたという、達成感からくる喜び。
【解答・解説】
正解:2
「説」は、内面から静かに湧き上がってくるような知的な満足感、喜びを指す。「時に之を習ふ」は、一般に二通りの解釈がある。①機会があるごとに、学んだことを実践する。②折にふれて、学んだことを繰り返し復習する。いずれの解釈にしても、一度学んで終わりではなく、それを反復し、実践し、自分の血肉としていく過程にこそ、本当の学びの「喜び」がある、と孔子は説いている。したがって、学問が深化していく内面的な喜びを述べた選択肢2が最も適切である。
問2 傍線部(2)「有朋自遠方来、不亦楽乎」で述べられている「楽(楽しさ)」は、傍線部(1)の「説(喜び)」と比べて、どのような点で異なると考えられるか。最も適当なものを次から選べ。
- 「説」が内面的な喜びであるのに対し、「楽」は他者と分かち合う、より外向的で明るい楽しさである。
- 「説」が精神的な喜びであるのに対し、「楽」は酒宴などを伴う、より肉体的な楽しさである。
- 「説」が瞬間的な喜びであるのに対し、「楽」は長い時間をかけて育まれる、持続的な楽しさである。
- 「説」が自分だけの喜びであるのに対し、「楽」は友人のための自己犠牲を伴う楽しさである。
【解答・解説】
正解:1
第一句の「説」が、個人が学びを深めるという内面的な喜びを指すのに対し、第二句の「楽」は、「朋(友人)」という他者が登場することから、より社交的で、外に向かって開かれた楽しさを指すとされる。「楽」という字は、音楽の「楽」にも通じ、感情が外に発露するような、明るく賑やかな楽しさのニュアンスを持つ。したがって、内面的な「説」と、他者と共有する外向的な「楽」という対比が最も適切である。
問3 傍線部(3)「人不知而不慍、不亦君子乎」とあるが、なぜ「人知らずして慍みず」であることが「君子」の証となるのか。その理由として最も適当なものを次から選べ。
- 自分の価値を他人の評価に依存せず、徳を修めること自体に喜びを見出している、成熟した境地に達しているから。
- いずれ自分の真価は世間に認められるはずだと、固く信じているから。
- 自分を認めない世間の人々を、自分よりレベルの低い愚かな者たちだと見なしているから。
- 自分の徳がまだ不十分であるために、人々に認められないのだと、謙虚に反省しているから。
【解答・解説】
正解:1
「君子」は、他人の評価や名声といった、外部の基準のために学問をするのではない。学び、徳を実践すること自体が目的であり、喜びなのである。したがって、たとえ世間の人々が自分の価値を認めてくれなくても(人知らず)、そのことで不平不満(慍み)を抱くことはない。自分の価値基準が、他人の評価から独立し、自己の内面に確立している状態、これこそが孔子の考える「君子」の成熟した境地である。
【覚えておきたい知識】
重要句法
- 不亦A乎 (またAならずや):「なんとAではないか」。詠嘆・反語の形で、強い肯定を表す。
重要単語
- 子(し):先生。ここでは孔子のこと。
- 時(とき)に:機会があるごとに、折にふれて。
- 習(なら)ふ:復習する、実践する。
- 説(よろこ)ばし:喜ばしい。知的な満足感、内面的な喜び。
- 朋(とも):同じ師について学ぶ友人、同志。
- 楽(たの)し:楽しい。他者と分かち合う、外向的な楽しさ。
- 慍(うら)みず:不平不満に思わない、いきどおらない。
- 君子(くんし):徳の完成した、理想的な人物。
背景知識:論語の冒頭
出典は『論語』学而篇の第一章。すなわち、『論語』全体の冒頭を飾る、最も有名な章句の一つである。この短い三つの文は、孔子の思想の核心である「学び」のプロセスと、その先にある理想的な人格「君子」の境地を、段階的に示しているとされる。第一段階は、学びそのものから得られる個人的・内面的な「喜び(説)」。第二段階は、同志と学びを語り合う社交的な「楽しさ(楽)」。そして最終段階は、他者の評価から解放され、徳そのものに安住する「君子」の境地である。孔子の教えが、単なる知識の習得ではなく、人格の陶冶(とうや)を目指すものであることを象徴している。