057(『戦国策』楚策 より 虎の威を借る狐)
本文
虎求百獣而食之、得狐。狐曰、「子無敢食我也。天帝使我長百獣。(1)今子食我、是逆天帝命也。子以我為不信、吾為子先行、子随我後、観百獣之見我而敢不走乎。」虎以為然。故遂与之行。獣見之皆走。虎不知獣之畏己而走也、(2)以為畏狐也。
今王之地方五千里、帯甲百万、而専属之昭奚恤。故北方之畏昭奚恤也、其実畏王之甲兵也、(3)猶獣之畏虎也。
【書き下し文】
虎(とら)、百獣(ひゃくじゅう)を求めて之(これ)を食らふに、狐(きつね)を得たり。狐曰く、「子(し)、敢(あ)へて我を食らふこと無(な)かれ。天帝(てんてい)、我をして百獣に長(ちょう)たらしむ。(1)今、子、我を食らはば、是(こ)れ天帝の命(めい)に逆(さか)らふなり。子、我を以(もっ)て信(しん)ならずと為(な)さば、吾(われ)、子の為に先行せん。子、我が後(あと)に随(したが)ひ、百獣の我を見て敢へて走らざらんやを観(み)よ。」と。虎、以て然(しか)りと為す。故(ゆゑ)に遂(つひ)に之(これ)と行(ゆ)く。獣、之を見て皆走る。虎、獣の己(おのれ)を畏(おそ)れて走るを知らざるなり。(2)以て狐を畏るゝと為せり。
今、王の地、方(ほう)五千里、帯甲(たいこう)百万にして、専(もっぱ)ら之を昭奚恤(しょうけいじゅつ)に属(しょく)す。故に北方の昭奚恤を畏るるや、其の実は王の甲兵(こうへい)を畏るるなり、(3)猶(な)ほ獣の虎を畏るるがごときなり。
【現代語訳】
(場面は変わり、楚の国の朝廷での議論となる) さて今、王様(楚の宣王)の領地は五千里四方、武装した兵士は百万を数えますが、その全権を(大臣の)昭奚恤に任せておられます。ですから、北方の国々が昭奚恤を恐れているのは、その実、王様の軍隊を恐れているのであって、(3)ちょうど獣たちが虎を恐れるのと同じようなものなのです。
【設問】
問1 傍線部(1)「今子食我、是逆天帝命也」という狐の言葉の狙いは何か。最も適当なものを次から選べ。
- 虎の信仰心に訴えかけ、自分を神聖な存在だと思い込ませるため。
- 自分を食べても天罰が下るだけで、虎のためにならないと親切に教えるため。
- 天帝という架空の権威を持ち出し、虎を脅して反撃の隙を作るため。
- 自分は天帝の使いなので不味いと伝え、虎の食欲を失わせるため。
問2 傍線部(2)「以為畏狐也」とあるが、虎がそのように思い込んだのはなぜか。最も適当なものを次から選べ。
- 狐の堂々とした歩き方に、百獣の王としての威厳を感じ取ったから。
- 狐が言った通りの状況が目の前で起こり、狐の言葉を完全に信じてしまったから。
- 自分も狐の迫力に少し恐怖を感じており、他の獣たちも同じだろうと考えたから。
- 獣たちが、虎のいる方向ではなく、狐のいる方向を見て逃げていったから。
問3 この寓話における「虎」と「狐」は、後半の君主と家臣の話において、それぞれ誰にたとえられているか。最も適当な組み合わせを次から選べ。
- 虎-楚王、狐-北方の諸国
- 虎-北方の諸国、狐-楚王
- 虎-楚王、狐-昭奚恤
- 虎-昭奚恤、狐-楚王
問4 傍線部(3)「猶獣之畏虎也」と結論づけることで、語り手が楚王に伝えたかった最も重要なことは何か。次の中から選べ。
- 大臣の昭奚恤が狐のようにずる賢いので、決して油断してはならないということ。
- 北方の国々が恐れているのは大臣の昭奚恤個人ではなく、その背後にある王の強大な軍事力であるということ。
- 昭奚恤が狐のように王の威光をうまく利用して外交を行っている、有能な大臣であるということ。
- 王の威光も、昭奚恤がいなければ北方の国々には伝わらない、一心同体の関係であるということ。
【解答・解説】
問1:正解 1
- 狐は、自分よりはるかに強い虎から逃れるために、物理的な力ではなく「天帝」という虎も逆らえないであろう絶対的な権威を持ち出した。これは、自分を天帝から任命された特別な存在だと虎に信じ込ませ、食べられないようにするための策略である。
問2:正解 2
- 虎は、狐の「百獣が私を見て逃げるだろう」という言葉を半信半疑ながらも受け入れた(虎、以て然りと為す)。そして実際に狐の後についていくと、獣たちが皆逃げていった。この結果を見て、虎は狐の言葉が真実であったと完全に信じ込み、「獣は狐を畏れているのだ」と思い込んだ。自分の威光という可能性に思い至らないところが虎の愚かさでもある。
問3:正解 3
- 後半部分で、語り手はこの寓話を現実の政治に適用している。「北方の畏昭奚恤也、其実畏王之甲兵也(北方が昭奚恤を恐れるのは、実は王の軍隊を恐れているのだ)」とあることから、実質的な力を持っている「虎」が「楚王(の軍隊)」、その力を借りて威張っている「狐」が「昭奚恤」であることがわかる。
問4:正解 2
- この話の結論は、「皆さんが大臣の昭奚恤を恐れているようですが、それは勘違いですよ」というメッセージである。諸外国や国内の他の臣下が恐れている力の源泉は、昭奚恤個人にあるのではなく、楚王その人にあるのだと指摘することで、王こそが真の権力者であることを再確認させ、昭奚恤の権勢が王の威光に依存していることを明らかにしようとしている。
【覚えておきたい知識】
重要句法
- 無敢~ (あへて~することなかれ):「決して~してはならない」。強い禁止。
- 使A動詞 (Aをして~しむ):「Aに~させる」。使役形。本文では「使我長百獣」。
- 以為A (もってAとなす):「Aだと思う、Aと考える」。
- 猶A之B也 (なほAのBするがごときなり):「ちょうどAがBするようなものである」。比喩。
重要単語
- 天帝(てんてい):天の神。宇宙の支配者。
- 長(ちょう)たり:長(おさ)、リーダーとなる。
- 信(しん):本当である、信頼できる。
- 然(しか)り:その通りである。
- 帯甲(たいこう):鎧を身につけること。転じて、武装した兵士。
- 属(しょく)す:任せる、委ねる。
- 甲兵(こうへい):鎧と武器。転じて、軍隊、軍事力。
背景知識:虎の威を借る狐(とらのいをかるきつね)
出典は『戦国策』楚策。この話は、楚の宣王が、北方の国々が大臣の昭奚恤を恐れていると聞き、その理由を家臣に尋ねた際に、江乙という人物が答えた寓話である。権力のない者が、有力者の権勢をかさに着て威張ることのたとえとして、現代でも広く使われる。原文では、この話の後に「王が土地や軍隊の実権を昭奚恤に与えているから、皆彼を恐れるのです。もし実権を他の者に与えれば、皆その者を恐れるようになるでしょう」と続き、権力の実体は王自身にあることを説いている。