056(『韓非子』五蠹 より 守株)
本文
宋人有耕田者。田中(1)有株。兎走触株、折頸而死。(2)因釈其耒而守株、冀復得兎。兎不可復得、而身為宋国笑。今欲以先王之政、治当世之民、(3)皆守株之類也。
古者丈夫不耕、草木之実足食也。婦人不織、禽獣之皮足衣也。不事力而養足、人民少而財有余、故民不争。是以厚賞不行、重罰不用、而民自治。今人有五子不為多、子又有五子、大父未死而有二十五孫。是以人民衆而財貨寡、事力労而供養薄。故民争、雖倍賞累罰而不免於乱。
【書き下し文】
宋人(そうひと)に田を耕す者有り。田中に(1)株(くいぜ)有り。兎(うさぎ)走りて株に触れ、頸(くび)を折りて死す。(2)因(よ)りて其(そ)の耒(すき)を釈(す)てて株を守(まも)り、復(ま)た兎を得んことを冀(こひねが)ふ。兎、復た得べからずして、身は宋国(そうこく)の笑ひとなる。今、先王(せんのう)の政(まつりごと)を以(もっ)て、当世(とうせい)の民を治めんと欲するは、(3)皆(みな)株を守るの類(たぐひ)なり。
古(いにしへ)は丈夫(じょうふ)耕さずとも、草木(そうもく)の実(み)、食らふに足るなり。婦人(ふじん)織らずとも、禽獣(きんじゅう)の皮、衣(き)るに足るなり。力を事とせずして養ひ足り、人民少なくして財(ざい)余り有り、故に民争はず。是(ここ)を以(もっ)て厚賞(こうしょう)行はれず、重罰(じゅうばつ)用ゐられずして、民自(おのづか)ら治まる。今、人、五子(ごし)有るも多しと為(な)さず、子、又(ま)た五子有り、大父(たいふ)未(いま)だ死せざるに二十五人の孫有り。是を以て人民衆(おお)くして財貨(ざいか)寡(すく)なく、力を事とし労して供養(きょうよう)薄し。故に民争ふ。倍賞(ばいしょう)累罰(るいばつ)すと雖(いへど)も乱を免(まぬか)れず。
【現代語訳】
大昔は、男が耕作しなくても、草や木の実だけで食べるには十分だった。女が機を織らなくても、鳥や獣の皮だけで着るには十分だった。労力を尽くさなくても生活は足り、人口は少なくて財産には余裕があった。だから人民は争わなかった。このため、手厚い褒美を与えることも、重い罰を用いることもなく、人民は自然と治まっていた。現代では、一人の男に五人の子がいても多いとはされず、その子にまた五人の子が生まれ、祖父がまだ死なないうちに二十五人の孫がいる。このため人口は多くて物資は少なく、必死に働いても生活は苦しい。だから人民は争う。たとえ褒美を倍にし、罰を重ねても、混乱をなくすことはできないのだ。
【設問】
問1 傍線部(2)「因釈其耒而守株、冀復得兎」という宋人の行動の根底にある考え方として、最も適当なものを次から選べ。
- 一度あった幸運は、努力しなくても何度も繰り返されるはずだという期待。
- 兎がぶつかった切り株は神聖なものであり、それを守ることが豊作につながるという信仰。
- 兎を捕まえることは、農作業で得られる利益よりもはるかに大きいという計算。
- この幸運は、自分が日頃から真面目に働いてきたことへの天からの褒美だという確信。
問2 傍線部(3)「皆守株之類也」とあるが、筆者はなぜ「先王の政を以て、当世の民を治めんと欲する」ことを「守株」と同じだと批判しているのか。その理由として最も適当なものを次から選べ。
- 先王の政治は偶然成功しただけで、再現性がないから。
- 古代と現代とでは、人口や経済状況といった社会の前提条件が全く異なっており、過去の成功例が現在も通用するとは限らないから。
- 先王の政治は徳が高すぎ、現代の堕落した役人や民衆には到底真似できないから。
- 現代の民は先王の時代の民よりも賢く、古い政治手法では満足しないから。
問3 筆者が本文後半で古代と現代の状況を対比している主目的は何か。最も適当なものを次から選べ。
- 現代の民衆が争い合うのは、道徳心が低下したせいではなく、人口増による物資不足が原因であることを示すため。
- 古代の社会がいかに平和で豊かであったかを述べ、現代社会の問題点を浮き彫りにするため。
- 人口が増えすぎることの危険性を訴え、為政者に人口抑制策の必要性を説くため。
- 昔は良かったと懐かしむばかりで、現代の課題から目をそむける為政者を批判するため。
問4 この文章全体からうかがえる筆者の政治に対する考え方として、最も適当なものを次から選べ。
- 時代や社会状況の変化に応じて、法律や統治方法も変えていくべきである。
- 人民の道徳心を教育によって高めることこそが、国を治める最善の方法である。
- 古代の聖王が実践した徳治政治こそが、いつの時代も目指すべき理想である。
- 国家の安定のためには、手厚い褒美と厳しい罰をためらわずに用いるべきである。
【解答・解説】
問1:正解 1
- 男は、兎が切り株にぶつかって死んだという「偶然の幸運」を経験し、鋤を捨ててその場所を守った。これは、その幸運が「再び」起こることを「冀(こひねが)」ったからである。何の工夫も努力もせず、ただ偶然の再来を待つという期待に基づいた行動である。
問2:正解 2
- 筆者は「守株」の話に続けて、古代と現代の社会状況の違い(人口、物資、争いの有無)を具体的に説明している。これは、「先王の政」が有効だったのは古代の社会状況ればこそであり、状況が激変した「当世」にそのまま持ち込んでも通用しない、という論理の根拠となっている。過去の成功体験(先王の政)に固執し、時代の変化という現実を見ない姿勢を「守株」にたとえて批判している。
問3:正解 1
- 筆者は、古代の民が争わなかったのは「人民少而財有余」だから、現代の民が争うのは「人民衆而財貨寡」だからだと、明確に経済的・社会構造的な理由を挙げている。これは、儒家が主張するような「徳」や「道徳心」で社会問題が解決するわけではない、という韓非子の根本的な主張につながる。したがって、争いの原因が道徳ではなく経済にあることを示すのが主目的である。
問4:正解 1
- 「守株」の寓話と、それに続く古代と現代の対比は、一貫して「時代は変化するのだから、政治もそれに合わせて変えなければならない」というメッセージを伝えている。過去の成功例に固執する儒家的な考え方を批判し、現実の社会状況に即した新しい法や統治を重視する法家の思想が明確に表れている。選択肢1がこの思想を最もよく表している。選択肢4は法家の思想の一部ではあるが、この文章の主眼は「時代への適応」にあるため、1がより適切である。
【覚えておきたい知識】
重要句法
- 不可復~ (また~べからず):「二度と~できない」。
- 為A笑 (Aのわらひとなる):「Aの笑いものになる」。受身形。
- 雖A不B (AといへどもBず):「たとえAであってもBない」。逆接。
- 是以 (ここをもって):「こういうわけで」「だから」。順接。
重要単語
- 株(くいぜ):切り株。杭。
- 釈(す)つ:手放す。捨てる。
- 耒(すき):土を耕す農具。
- 冀(こひねが)ふ:強く願う。期待する。
- 先王(せんのう):古代の徳の高い聖王。儒家が理想とする。
- 当世(とうせい):今の世の中。現代。
- 五蠹(ごと):国をむしばむ五種類の害虫。韓非子が批判した儒学者などを指す。
- 寡(すく)なし:少ない。
背景知識:守株(しゅしゅ)・株を守る
出典は『韓非子』五蠹篇。韓非子は、戦国時代の法家の思想家で、君主の権力、法、策略による統治を重視した。儒家の徳治主義を、現実離れしていると厳しく批判した。この話は、古い慣習や過去の成功例に固執し、時代の変化に対応できない愚かさを批判するための寓話である。ここから、古いやり方に固執して進歩がないことのたとえとして「守株」「株を守る」という故事成語が生まれた。韓非子は、儒家が理想とする「先王の政治」も、現代においては「守株」と同じくらい愚かなことだと断じている。