099(『列子』湯問篇 より 愚公山を移す)
本文
太行・王屋二山、方七百里、高万仞。本在冀州之南、河陽之北。北山愚公者、年且九十、面山而居。懲山北之塞、出入之迂也。聚室而謀曰、「吾与汝畢力平険、指通豫南、達於漢陰、可乎。」雑然相許。
其妻献疑曰、「(1)以君之力、曾不能損魁父之丘。如太行・王屋何。且焉置土石。」雑曰、「投諸渤海之尾、隠土之北。」遂率子孫荷担者三夫、叩石墾壌、箕畚運於渤海之尾。
河曲智叟、笑而止之曰、「甚矣、汝之不恵。以残年余力、曾不能毀山之一毛。其如土石何。」北山愚公長息曰、「汝心之固、固不可徹、曾不若孀妻弱子。(2)雖我之死、有子存焉。子又生孫、孫又生子。子又有子、子又有孫。子子孫孫、無窮匱也。而山不加増。何苦而不平。」河曲智叟亡以応。
操蛇之神聞之、懼其不已也、告之于帝。(3)帝感其誠、命誇娥氏二子負二山、一厝朔東、一厝雍南。
【書き下し文】
太行(たいこう)・王屋(おうおく)の二山(にさん)、方(ほう)七百里、高さ万仞(ばんじん)。本(もと)、冀州(きしゅう)の南、河陽(かよう)の北に在り。北山(ほくさん)の愚公(ぐこう)なる者、年(よはひ)将(まさ)に九十ならんとし、山に面して居(を)り。山北の塞(ふさ)がり、出入(しゅつにゅう)の迂(う)なるに懲(くる)しむ。室(しつ)を聚(あつ)めて謀(はか)りて曰く、「吾(われ)、汝(なんぢ)と力を畢(つく)して険(けん)を平(たひ)らげ、豫南(よなん)に指通(しつう)し、漢陰(かんいん)に達せば、可(か)ならんか。」と。雑然(ざつぜん)として相(あひ)許(ゆる)す。
其の妻、疑ひを献じて曰く、「(1)君の力を以て、曾(かつ)て魁父(かいほ)の丘を損(そん)すること能(あた)はず。太行・王屋を如何(いかん)せん。且(か)つ土石を焉(いづく)にか置かん。」と。雑(こもごも)曰く、「諸(これ)を渤海(ぼっかい)の尾(び)、隠土(いんど)の北に投ぜん。」と。遂に子孫の担(にな)ふを荷(か)する者三夫(さんぷ)を率(ひき)ゐ、石を叩き壌(つち)を墾(たがや)し、箕畚(きふん)して渤海の尾に運ぶ。
河曲(かきょく)の智叟(ちそう)、笑ひて之を止めて曰く、「甚(はなは)だしきかな、汝の恵(けい)ならざること。残年(ざんねん)余力(よりょく)を以て、曾て山の一毛(いちもう)を毀(やぶ)ること能はず。其の土石を如何せん。」と。北山愚公、長息(ちょうそく)して曰く、「汝の心の固(かたくな)なる、固(もと)より徹(とほ)す可からず、曾て孀妻(そうさい)弱子(じゃくし)に若(し)かず。(2)我の死すと雖も、子存(そん)する有り。子又孫を生み、孫又子を生む。子に又子有り、子に又孫有り。子子孫孫(ししそんそん)、窮匱(きゅうき)すること無し。而(しか)るに山は増すを加へず。何ぞ平(たひ)らかならざるを苦しまん。」と。河曲の智叟、以て応(こた)ふる亡(な)し。
蛇を操(あやつ)るの神、之を聞き、其の已(や)まざらんことを懼(おそ)れ、之を帝(てい)に告ぐ。(3)帝、其の誠に感じ、誇娥氏(かかし)の二子に命じて二山を負(お)はしめ、一を朔東(さくとう)に厝(お)き、一を雍南(ようなん)に厝く。
【現代語訳】
しかし、彼の妻が疑いの言葉を述べた、「(1)あなたの力では、以前、魁父という小さな丘さえ崩せなかったではありませんか。あの太行山や王屋山をどうしようというのです。それに、掘り出した土や石はどこへ捨てるのですか。」と。皆は口々に言った、「それを渤海の果て、隠土の北に捨てよう。」と。こうして、愚公は子や孫で荷物を運べる者三人を引き連れ、石を砕き土を掘り起こし、もっこで渤海の果てまで運んだ。
河のほとりに住む智叟(物知りじいさん)が、これを笑って止めさせようと言った、「ひどいものだな、君の物分かりの悪さは。その残り少ない寿命と力では、山の一本の草木さえ損なうこともできまい。ましてや、その大量の土石をどうしようというのか。」と。北山の愚公は、深いため息をついて言った、「あなたの心は頑固で、道理を全く理解していない。まるで後家さんや小さな子供にも及ばない。(2)たとえ私が死んでも、私には子がいる。子はまた孫を生み、孫はまた子を生む。その子にはまた子が生まれ、その子にはまた孫が生まれる。子孫は無限に続いていく。しかし、山はこれ以上大きくはならない。山が平らにならないことを、どうして心配する必要があろうか(いや、心配ない)。」と。河曲の智叟は、何も言い返すことができなかった。
(山に宿る)蛇を操る神がこの話を聞き、愚公の意志が決して止まらないことを恐れ、天帝に報告した。(3)天帝は愚公の誠意に感動し、大力で知られる誇娥氏の二人の息子に命じて二つの山を背負わせ、一つを朔方の東に、もう一つを雍州の南に置かせた。
【設問】
問1 傍線部(1)の妻の言葉と、その後の智叟の言葉に共通する、愚公の計画に対する見方はどのようなものか。最も適当なものを次から選べ。
- 一人の人間の限られた力と寿命では、到底成し遂げられない無謀な計画だという見方。
- 自然の偉大な摂理に逆らう、人間のおごり高ぶった計画だという見方。
- 家族や子孫を犠牲にする、自己満足のための計画だという見方。
- 計画そのものよりも、土石を捨てる方法が非現実的だという見方。
問2 傍線部(2)の愚公の反論の中心となる論理はどのようなものか。最も適当なものを次から選べ。
- 人間の無限の精神力と、有限である自然物とを対比する論理。
- 世代を超えて続く人間の営みの無限性と、変化しない自然の有限性とを対比する論理。
- 人間の労働力と、山の大きさとを、数学的に計算して比較する論理。
- 人間の家族の団結力と、孤立した自然物とを対比する論理。
問3 この物語に登場する「愚公」と「智叟」の人物像の対比として、最も適当なものを次から選べ。
- 夢想家の「愚公」と、現実主義者の「智叟」。
- 楽観主義者の「愚公」と、悲観主義者の「智叟」。
- 長期的な視点を持つ「愚公」と、短期的な常識にとらわれる「智叟」。
- 行動家の「愚公」と、批評家の「智叟」。
問4 傍線部(3)「帝感其誠」という結末が示していることは何か。この物語の教訓として最も適当なものを次から選べ。
- 人間が誠意を尽くせば、不可能を可能にする奇跡が起こることがある。
- 揺るぎない意志と世代を超えた努力を続ける誠意は、やがて天さえも動かす力になる。
- 人間の手に負えない問題は、最終的には神の助けを借りるしかない。
- 誠実な行いは、たとえ人間に理解されなくても、天は必ず見ている。
【解答・解説】
問1:正解 1
- 妻は「君の力を以て…能はず」と、愚公個人の力の限界を指摘し、智叟も「残年余力を以て…能はず」と、愚公の残り少ない寿命と力の限界を指摘している。両者とも、一個人の能力という常識的な物差しで計画を測り、不可能で無謀だと判断している点で共通している。
問2:正解 2
- 愚公の反論の核心は、「子子孫孫、窮匱すること無し(子孫は無限に続く)」という人間の営みの継続性・無限性と、「山は増すを加へず(山はこれ以上大きくならない)」という自然物の不変性・有限性とを対比させた点にある。時間のスケールを個人の一生から、世代を超えた永続的なものへと転換することで、智叟の常識的な批判を乗り越えている。
問3:正解 3
- 智叟は「残年余力」という、目に見える短期的な常識で物事を判断し、愚公を「不恵(物分かりが悪い)」と笑う。一方、愚公は「子子孫孫」という、目には見えない長期的な視点で計画の実現を信じている。この物語では、常識にとらわれる「智叟(賢者)」よりも、揺るぎない意志を持つ「愚公(愚者)」の方が、より本質的な道理を掴んでいる、という価値観の逆転が描かれている。
問4:正解 2
- この物語は、愚公が自力で山を動かしたという話ではない。彼の「其の已まざらんことを懼れ(その意志が決して終わらないこと)」と「誠(誠意)」に、人知を超えた存在である「帝(天帝)」が「感じて」、山を動かした、という結末になっている。これは、人間の揺るぎない意志とたゆまぬ努力は、やがて天をも動かし、不可能を可能にするという、精神力の偉大さを示す教訓である。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 愚公(ぐこう):愚かな老人、の意。主人公の名。
- 懲(くる)しむ:苦しむ、悩む。
- 迂(う)なり:遠回りである。
- 畢(つく)す:すべて出し尽くす。
- 曾(かつ)て~ず:今までに一度も~したことがない。
- 智叟(ちそう):物知りな老人、の意。愚公を笑う人物の名。
- 恵(けい):賢い、知恵がある。ここでは「不恵」で「物分かりが悪い」。
- 窮匱(きゅうき):尽き果てること。
- 何苦~ (なんぞ~をくるしまん):「どうして~を心配する必要があろうか」。反語。
- 厝(お)く:置く。
背景知識:愚公山を移す(ぐこうやまをうつす)
出典は道家の書物『列子』湯問篇。一見、愚かに見える行為でも、絶え間ない努力を続ければ、ついには偉大な事業を成し遂げることができる、という教え。目先の利害や常識にとらわれる「智叟(賢者)」よりも、揺るぎない意志を持つ「愚公(愚者)」の方が、最終的に事を成すという、道家的な価値観の転倒が示されている。この故事から、「愚公山を移す」という言葉は、何事も根気よく続ければ、必ず成し遂げられることのたとえとして使われる。毛沢東が演説で引用したことでも有名。