098(『韓非子』説難 より 逆鱗)
本文
夫竜之為虫也、可擾狎而騎也。然其喉下有(1)逆鱗径尺。(2)若人有嬰之者、則必殺人。人主亦有逆鱗。説者能無嬰人主之逆鱗、則幾矣。
【書き下し文】
夫(そ)れ竜(りゅう)の虫(むし)たるや、擾狎(じょうこう)して騎(の)る可(べ)きなり。然(しか)れども其(そ)の喉下(こうか)に(1)逆鱗(げきりん)の径尺(けいしゃく)なる有り。(2)若(も)し人の之(これ)に嬰(ふ)るる者有らば、則(すなは)ち必ず人を殺す。人主(じんしゅ)も亦(ま)た逆鱗有り。説者(ぜいしゃ)、能(よ)く人主の逆鱗に嬰るること無くんば、則ち幾(ちか)し。
【現代語訳】
【設問】
問1 傍線部(1)「逆鱗」は、竜にとってどのような部分か。本文の説明に即して、最も適当なものを次から選べ。
- 竜の体で最も硬く、どんな攻撃も跳ね返す部分。
- 竜が、乗り手と心を通わせるための、重要な感覚器官。
- 竜の急所であり、決して触れてはならない禁忌の部分。
- 竜の魔力の源泉であり、その力を制御している部分。
問2 傍線部(2)「若人有嬰之者、則必殺人」とあるが、この竜の比喩が示している「人主(君主)」の性質として、最も適当なものを次から選べ。
- 普段は温厚で理性的だが、一度怒らせると手がつけられなくなる。
- 自分の弱点を指摘されると、たとえそれが的確な助言であっても、感情的に激しく反発し、相手を罰することがある。
- 猜疑心が強く、臣下の忠誠心を試すために、わざと怒ったふりをすることがある。
- 自分を殺そうとする者に対しては、容赦なく報復する、自己防衛本能が極めて強い。
問3 筆者は、君主を説得しようとする「説者」に対し、最も重要な心構えとして何を説いているか。本文の趣旨として最も適当なものを次から選べ。
- 君主の機嫌を損ねないよう、常に相手を持ち上げ、賛同の意を示すこと。
- 説得内容の論理的な正しさを追求し、君主の感情に左右されないこと。
- 君主が触れられたくない話題やプライドを事前に察知し、それを巧みに避けること。
- 命がけの覚悟で、君主が耳にしたくないことであっても、直言すること。
問4 この文章全体からうかがえる、筆者(韓非子)の人間観・君主観として、最も適当なものを次から選べ。
- 君主も人間である以上、理性だけでなく、触れられてはならない感情的な弱点を持っている。
- 君主は、竜のように神聖な存在であり、臣下は常に敬意をもって接するべきである。
- 人間は、竜を乗りこなすように、努力次第でどんな困難な相手でも説得することができる。
- 君主というものは、臣下の進言に耳を傾ける度量を持つべきである。
【解答・解説】
問1:正解 3
- 竜は普段は「擾狎して騎る可き」ほどおとなしいが、喉の下の「逆鱗」に「嬰るる(触れる)」者がいれば、「必ず人を殺す」とある。このことから、「逆鱗」は、竜の理性を失わせるほどの、極めて危険な急所であり、絶対に触れてはならない部分であることがわかる。
問2:正解 2
- この比喩は、「説者(説得する者)」と「人主(君主)」の関係について語っている。説得者の言葉が、君主の「逆鱗(触れられたくない弱点やプライド)」に触れてしまうと、君主はその言葉の正しさ(=助言の価値)を判断する理性を失い、ただ感情的に激怒して、説得者を罰してしまう(=殺す)危険がある、という性質を示している。
問3:正解 3
- 筆者は、「説者能く人主の逆鱗に嬰るること無くんば、則ち幾し(説得者が君主の逆鱗に触れることがなければ、成功は近い)」と結論づけている。これは、説得の成否は、内容の正しさ以前に、まず君主の感情を害しないことが大前提である、という現実的な忠告である。したがって、君主が嫌がるであろう話題を事前に見抜き、それに触れないように話を進める慎重さが最も重要だと説いている。
問4:正解 1
- 韓非子は、君主を絶対的な権力者として捉えつつも、決して完璧な聖人とは考えていない。竜が普段は乗りこなせるほど理性的でも、逆鱗という感情的な弱点を持つように、君主もまた、人間として、理性では割り切れないプライドやコンプレックス、触れられたくない過去などを持っており、説得者はその非合理的な側面を理解した上で向き合わなければならない、という冷徹な人間観察を示している。
【覚えておきたい知識】
重要句法
- 夫(そ)れ:文頭に置き、議論を始める合図。「そもそも」。
- 若(も)し~ば、則(すなは)ち…:「もし~ならば、…」。仮定条件。
- 幾(ちか)し:「近い」。ここでは成功に近い、の意。
重要単語
- 虫(むし):ここでは、広く生き物全般を指す言葉。
- 擾狎(じょうこう):なれ親しむ。
- 喉下(こうか):喉の下。
- 逆鱗(げきりん):逆さに生えたうろこ。
- 径尺(けいしゃく):直径が一尺(約30cm)であること。
- 嬰(ふ)る:触れる。
- 人主(じんしゅ):人民の主君。君主。
- 説者(ぜいしゃ):君主などに意見を説いてまわる人。遊説家。
背景知識:逆鱗に触れる(げきりんにふれる)
出典は『韓非子』説難篇。「説難」とは「説得することの難しさ」を意味する。法家思想の代表である韓非子は、君主が絶対的な権力を持つ以上、臣下が君主を説得する行為は極めて危険を伴うと考えていた。この話は、その危険性を竜の「逆鱗」にたとえて説明したものである。ここから、目上の人を激しく怒らせてしまうことを「逆鱗に触れる」と言うようになった。説得の成否は、論理の正しさだけでなく、相手の感情、特に触れてはならない弱点やプライドを見極める心理的な洞察力にかかっているという、韓非子の現実的な人間観察が示されている。