096(『韓非子』難一 より 矛盾)
本文
楚人有鬻盾与矛者、誉之曰、「吾盾之堅、(1)物莫能陥也。」又誉其矛曰、「吾矛之利、(2)於物無不陥也。」或曰、「以子之矛、陥子之盾、何如。」(3)其人弗能応也。
夫不可陥之盾、与無不陥之矛、不可同世而立。
【書き下し文】
楚人(そひと)に盾(たて)と矛(ほこ)とを鬻(ひさ)ぐ者有り、之を誉(ほ)めて曰く、「吾(わ)が盾の堅きこと、(1)物として能(よ)く陥(とほ)すもの莫(な)きなり。」と。又(ま)た其の矛を誉めて曰く、「吾が矛の利きこと、(2)物に於(お)いて陥さざる無きなり。」と。或(あ)るひと曰く、「子の矛を以(もっ)て、子の盾を陥さば、何如(いかん)。」と。(3)其の人、応(こた)ふること能(あた)はざるなり。
夫(そ)れ陥(とほ)す可(べ)からざるの盾と、陥さざる無きの矛とは、同(おな)じき世に立つ可からず。
【現代語訳】
そもそも、絶対に突き通せない盾と、絶対に突き通せないものはない矛が、同じ世界に両立することはありえないのである。
【設問】
問1 傍線部(1)「物莫能陥也」の句形と意味の説明として、最も適当なものを次から選べ。
- 【句形】二重否定 - 【意味】どんな物でも必ず突き通す。
- 【句形】不可能形 - 【意味】どんな物も突き通すことはできない。
- 【句形】不可能形 - 【意味】どんな物によっても突き通されることはない。
- 【句形】二重否定 - 【意味】突き通せない物はないわけではない。
問2 傍線部(2)「於物無不陥也」の句形と意味の説明として、最も適当なものを次から選べ。
- 【句形】二重否定 - 【意味】どんな物でも必ず突き通す。
- 【句形】不可能形 - 【意味】どんな物も突き通すことはできない。
- 【句形】不可能形 - 【意味】どんな物によっても突き通されることはない。
- 【句形】二重否定 - 【意味】突き通せない物はないわけではない。
問3 傍線部(3)「其人弗能応也」とあるが、商人が答えられなくなった状況を論理的に説明したものとして、最も適当なものを次から選べ。
- 二つの主張が互いに両立しないことを指摘され、どちらを肯定しても、もう一方の主張が偽りであることを自ら証明してしまうため。
- 実際には矛と盾の性能を試したことがなく、結果がどうなるか分からなかったため。
- 矛が盾を突き通せば盾が売れなくなり、突き通せなければ矛が売れなくなるという、商売上のジレンマに陥ったため。
- 自分の嘘が見破られたことに動揺し、頭が真っ白になってしまったため。
問4 この話の結論である「夫不可陥之盾、与無不陥之矛、不可同世而立」が示している、論理学上の基本原則は何か。最も適当なものを次から選べ。
- 因果律:すべての結果には必ず原因があるという原則。
- 同一律:ある事柄は、それ自身と同一であるという原則。
- 矛盾律:ある事柄が、同時に真であり、かつ偽であることはないという原則。
- 排中律:ある事柄は、真であるか偽であるかのどちらかであり、中間はないという原則。
【解答・解説】
問1:正解 3
- 「莫能~」は「能く~する莫し」と読み、「~できるものは何もない」という不可能を表す句形である。ここでは、盾を「陥す(突き通す)」ことができる「物」はない、と言っているので、「どんな物によっても突き通されることはない」という意味になる。
問2:正解 1
- 「無不~」は「~ざるは無し」と読み、「~しないことはない」という二重否定の句形である。二重否定は強い肯定を表すため、「陥さざるは無し」は「必ず陥す(突き通す)」という意味になる。
問3:正解 1
- この問題の核心は、論理的な自己矛盾にある。「絶対に突き通せない」という主張(Aとする)と、「絶対に何でも突き通せる」という主張(Bとする)は、互いに排斥しあう関係にある。客の質問は、このAとBを直接対決させる思考実験を提示したものである。もし矛が盾を貫けばAが偽となり、貫けなければBが偽となる。どちらにせよ、商人の主張の一方は必ず崩れる。この逃げ場のない論理的な破綻を指摘されたため、彼は答えられなくなったのである。
問4:正解 3
- この話が示しているのは、ある命題(例:「この盾は突き通せない」)とその否定命題(例:「この盾は(この矛によって)突き通せる」)が、同時に真であることはありえない、という論理学の基本原則である。これを「矛盾律(無矛盾律)」という。この故事そのものが「矛盾」という言葉の語源となった。
【覚えておきたい知識】
重要句法
- 莫能~ (よく~するはなし):「~できるものは何もない」。不可能を表す。
- 無不~ (~ざるはなし):「~ないものはない」。二重否定であり、強い肯定(「必ず~する」)を表す。
- 弗能~ (~することあたはず):「~することができない」。不可能を表す。「不」よりも強い否定。
- 不可~ (~べからず):「~できない」「~してはならない」。不可能・禁止。
重要単語
- 鬻(ひさ)ぐ:商品を売る。行商する。
- 誉(ほ)む:ほめる。自慢する。
- 陥(とほ)す:突き通す。貫く。
- 或(あ)るひと:ある人。不特定の人を指す。
- 何如(いかん):どうであるか、どうなるか。
- 同世而立(どうせいにしてたつ):同じ時代に両立する。
背景知識:矛盾(むじゅん)
出典は『韓非子』難一篇。「難」とは、他人の説の難点を問いただす、の意。この話は、弁論における論理的な矛盾を指摘する例として挙げられている。ここから、二つの事柄のつじつまが合わないことを意味する「矛盾」という故事成語が生まれた。韓非子は、現実の社会状況に即した厳格な「法」による統治を主張し、儒家が理想とするような、曖昧で時代遅れの「徳」や過去の聖王のやり方を、しばしばこのような論理的な寓話を用いて批判した。