091(『荘子』人間世 より 無用の用)
本文
匠石之斉、至于曲轅、見櫟社樹。其大蔽数千牛、絜之百囲、其高臨山十仞、而後有枝。其可以為舟者、旁十数。観者如市、(1)匠伯不顧、遂行不輟。
弟子厭観之、走及匠石、曰、「自吾執斧斤以随夫子、未嘗見材如此其美也。先生不肯視、行不輟、何也。」曰、「已。勿言之矣。(2)散木也。以為舟則沈、以為棺槨則速腐、以為器則速毀、以為門戸則液樠、以為柱則蠹。是不材之木也。無所可用。故能若是之寿。」
匠石帰、櫟社樹見夢曰、「女将悪乎比予。若将比予於文木邪。夫柤梨橘柚、果実熟則剥、剥則辱。大枝折、小枝泄。此以其能苦其生者也。故不終其天年而中道夭。…(3)予求無所可用、久矣。幾死、乃今得之。為予大用。使予也而有用、且得有此大也邪。」
【書き下し文】
匠石(しょうせき)、斉(せい)に之(ゆ)き、曲轅(きょくえん)に至り、櫟社樹(れきしゃじゅ)を見る。其の大いさ数千の牛を蔽(おほ)ひ、之を絜(はか)れば百囲(ひゃくい)、其の高さは山に臨(のぞ)みて十仞(じゅうじん)、而(しか)る後に枝有り。其の以て舟と為(な)す可(べ)き者、旁(かたは)らに十数あり。観る者市の如(ごと)きも、(1)匠伯(しょうはく)顧(かへりみ)ず、遂(つひ)に行きて輟(や)めず。
弟子(ていし)、之を観て厭(あ)き、走りて匠石に及びて、曰く、「吾(われ)、斧斤(ふきん)を執(と)りて夫子(ふうし)に随(したが)ひしより、未(いま)だ嘗(かつ)て材の此(かく)の如(ごと)く其れ美なるを見ざるなり。先生、視(み)るを肯(がへん)ぜず、行きて輟めざるは、何ぞや。」と。曰く、「已(や)んぬ。之を言ふ勿(なか)れ。(2)散木(さんぼく)なり。以て舟と為(な)さば則ち沈み、以て棺槨(かんかく)と為さば則ち速(すみ)やかに腐り、以て器と為さば則ち速やかに毀(こぼ)れ、以て門戸(もんこ)と為さば則ち液樠(えきまん)し、以て柱と為さば則ち蠹(むしば)まれん。是(こ)れ不材(ふざい)の木なり。用ふべき所無し。故に能(よ)く是(かく)の若(ごと)く寿(いのちなが)し。」と。
匠石帰る。櫟社樹、夢に見(あら)はれて曰く、「女(なんぢ)、将(まさ)に予(われ)を悪(いづく)にか比(ひ)せんとするか。若(なんぢ)、将に予を文木(ぶんぼく)に比せんとするか。夫(そ)の柤梨橘柚(そりきつゆう)は、果実熟すれば則ち剥(はが)され、剥さるれば則ち辱(はずかし)めらる。大枝(たいし)は折られ、小枝(しょうし)は泄(ひ)かる。此れ其の能(のう)を以て其の生を苦しむる者なり。故に其の天年を終へずして中道にして夭(わかじに)す。…(3)予、用ゐらるる所無きを求むること、久し。幾(ほとん)ど死せんとして、乃(すなは)ち今之を得たり。予の大用と為す。予をして有用ならしめば、且(まさ)に此の大なるを有(たも)つを得んや。」と。
【現代語訳】
弟子は、その木を飽きるほどじっくり見てから、走って石に追いついて言った、「私が斧を持って親方のお供をするようになってから、いまだかつてこれほど立派な木材を見たことがありません。親方は見ようともせず、歩みを止められませんでしたが、どうしてですか。」と。石は言った、「もうよい。その話はするな。(2)あれは役立たずの木だ。あれで舟を作れば沈むし、棺桶を作ればすぐに腐るし、器を作ればすぐに壊れるし、門扉を作ればヤニだらけになるし、柱にすれば虫に食われる。何の役にも立たない木だ。だから、あんなに長生きできたのだ。」と。
石が家に帰ると、あのクヌギの神木が夢に現れて言った、「お前は私を何と比べようというのか。美しい模様のある(役に立つ)木と比べようとするのか。あのカリン、ナシ、タチバナ、ユズなどの木は、果実が熟すと皮をむかれ、むかれれば辱められる。大きな枝は折られ、小さな枝は引きちぎられる。これは、その有用な能力によって、自らの生を苦しめている者たちだ。だから天寿を全うできずに途中で若死にする。…(3)私は、何の役にも立たない存在になることを、長い間求めてきたのだ。何度も(役に立つと見なされて)殺されそうになったが、今ようやくそれを手に入れた。それが私にとっては、大いなる有用さなのだ。もし私が(お前たちの言う)役に立つ木であったなら、そもそもこれほど大きく成長することができただろうか、いや、できなかっただろう。」と。
【設問】
問1 傍線部(1)「匠伯不顧、遂行不輟」とあるが、棟梁である石がこの巨大な木に見向きもしなかったのはなぜか。最も適当なものを次から選べ。
- 神木として祀られているのを恐れ、関わるのを避けたから。
- あまりに巨大すぎて、自分の技術では伐採も加工もできないと判断したから。
- 一目見て、木材としては全く役に立たない木だと見抜いたから。
- 見物人が多すぎて、ゆっくり木を吟味することができなかったから。
問2 傍線部(2)の「散木也」という棟梁の評価と、夢の中の木の自己評価との関係を最もよく説明しているものはどれか。次から選べ。
- 棟梁は「役立たず」と見なしたが、木自身はそれを最高の「有用性」だと考えている。
- 棟梁は「役立たず」と見なしたが、木自身はその評価に深く傷ついている。
- 棟梁は「役立たず」と見なしたが、木自身はいつか役に立ちたいと願っている。
- 棟梁は「役立たず」と見なしたが、木自身は自分の本当の価値を理解していない棟梁を哀れんでいる。
問3 傍線部(3)「予求無所可用、久矣」という木の言葉の根底にある価値観として、最も適当なものを次から選べ。
- 社会の役に立つことこそが、存在の第一義であるという価値観。
- 他者からの評価に左右されず、自分自身のあり方を追求するべきだという価値観。
- 人為的な有用性を避けることによって、自然のままの生命を全うすることこそが最も重要だという価値観。
- 目先の利益にとらわれず、長期的な視点で物事の有用性を判断すべきだという価値観。
問4 この物語が示す「無用の用」という考え方を、最もよく説明しているものを次の中から一つ選べ。
- 今は役に立たないものでも、いつか必ず役に立つ時が来るので、大切にすべきだという考え。
- 一見すると何の役にも立たないように見えるものが、実はそれゆえに災いを免れ、本来の天寿を全うするという、より大きな有用性を持つという考え。
- 世の中の役に立つことだけが価値なのではなく、ただそこに存在するだけでも十分に価値があるという考え。
- 物の価値は、それを使う人間によって決まるので、役に立つか立たないかは一概には言えないという考え。
【解答・解説】
問1:正解 3
- 棟梁の石は、弟子に問われた際に「散木也(役立たずの木だ)」と即答し、その理由を具体的に(舟にすれば沈む、等)列挙している。このことから、彼は一目見ただけで、その木が材木としての実用性に乏しいことを見抜いていたため、関心を示さなかったことがわかる。
問2:正解 1
- 棟梁が「散木(役立たず)」「不材之木(役に立たない木)」と断じた、その「無所可用(使い道がないこと)」こそが、木が「予の大用(私にとっての大いなる有用性)」だと主張している点である。人間の視点での「無用」が、木の視点では生存戦略としての「大用」になっているという、価値観の転倒がこの話の核心である。
問3:正解 3
- 木は、果実のなる木が「其の能を以て其の生を苦しむる」と述べ、人為的な有用性を持つことが、かえって天寿を妨げる原因になると考えている。その上で、自らは「用ゐらるる所無き(役に立たないこと)」を長年求めてきたと語る。これは、人間の都合(=有用性)から離れ、自然のままに与えられた命を全うすることに最高の価値を置く、荘子的な思想を反映している。
問4:正解 2
- 「無用の用」とは、人間社会の基準での「用(=実用性)」がない(=無用)であることが、かえって災難から身を守り、天寿を全うするという本来の目的を果たすための「用(=有用性)」になっている、という逆説的な考え方である。選択肢2がこの「無用」と「大用」の関係を最も正確に説明している。選択肢3や4も荘子の思想に近い部分はあるが、この物語の核心である「無用であるからこそ大用をなす」という逆説の論理を捉えているのは2である。
【覚えておきたい知識】
重要句法
- 未嘗不~(いまだかつて~ずんばあらず):「今まで~しなかったことはない」。強い肯定。本文の「未嘗見~ず」は「今まで見たことがない」という否定。
- 勿言之矣 (これをいふなかれ):「そのことを言うな」。禁止。
- 無所~ (~ところなし):「~するところのものがない」。
- 使A動詞 (Aをして~しむ):「Aに~させる」。使役形。本文では「使予也而有用」。
重要単語
- 匠石(しょうせき):大工の石(せき)さん、というほどの意。
- 櫟社樹(れきしゃじゅ):土地神を祀る神木であるクヌギの木。
- 囲(い):両腕を広げて抱える長さ。太さの単位。
- 仞(じん):古代の長さの単位。七尺または八尺。
- 輟(や)む:やめる、中止する。
- 厭(あ)く:満足する、飽きるほど十分に見る。
- 散木(さんぼく):役に立たない木。
- 不材(ふざい):役に立たないこと。才能がないこと。
- 文木(ぶんぼく):木目が美しい、役に立つ木材。
- 天年(てんねん):天から与えられた寿命。
背景知識:無用の用(むようのよう)
出典は『荘子』人間世篇。荘子は、人為的な価値観や常識に縛られず、自然のままに生きること(無為自然)を理想とした道家の思想家。この「無用の用」という考え方は、その思想の根幹をなすものの一つである。人間社会の基準で「役に立つ」とされるものは、かえってその能力ゆえに利用され、傷つけられ、本来の生命を全うできない。一方で、「役に立たない」と見なされるものは、誰からも干渉されずに、ありのままの生命を全うできる。常識的な価値観を転倒させ、物事の本質を問い直す、荘子らしい逆説的な思考が示されている。