090(『史記』淮陰侯列伝 より 胯下の辱)

本文

淮陰人有侮信者、曰、「若雖長大、好帯刀剣、(1)中情怯耳。」衆辱之曰、「信能死、刺我。不能死、出我胯下。」於是信孰視之、俛出胯下、蒲伏。一市人皆笑信、以為怯。
(中略…信、漢の将軍と為る。)
信至国、召所嘗食漂母、賜千金。及下郷南昌亭長、賜百銭、曰、「公、小人也。為徳不卒。」召辱己之少年、令出胯下者、以為中尉。告諸将相曰、「(2)此壮士也。方辱我時、我寧不能殺之邪。殺之無名。故忍而就於此。」

【書き下し文】
淮陰(わいいん)の人に信(しん)を侮(あなど)る者有りて、曰く、「若(なんぢ)、長大(ちょうだい)にして、刀剣(とうけん)を帯ぶるを好むと雖(いへど)も、(1)中情(ちゅうじょう)は怯(きょう)なるのみ。」と。衆(しゅう)にて之を辱(はずかし)めて曰く、「信、能(よ)く死せば、我を刺せ。死する能はずんば、我が胯下(こか)より出でよ。」と。是(ここ)に於(お)いて信、之を孰視(じゅくし)し、俛(ふ)して胯下より出で、蒲伏(ほふく)す。一市(いっし)の人、皆信を笑ひ、以(もっ)て怯なりと為(な)す。
(中略…信、漢の将軍と為る。)
信、国に至り、嘗(かつ)て食(しょく)らひし所の漂母(ひょうぼ)を召し、千金を賜(たま)ふ。下郷(かきょう)の南昌(なんしょう)の亭長(ていちょう)に及び、百銭(ひゃくせん)を賜ひて、曰く、「公は、小人(しょうじん)なり。徳を為すに卒(を)へず。」と。己を辱めし所の少年、胯下より出でしめし者を召し、以て中尉(ちゅうい)と為す。諸将相(しょしょうしょう)に告げて曰く、「(2)此(こ)れ壮士(そうし)なり。方に我を辱めし時、我、寧(いづく)んぞ之を殺すこと能はざらんや。之を殺すも名無し。故に忍びて此(ここ)に就(いた)れり。」と。

【現代語訳】
(若き日の韓信の故郷である)淮陰に、韓信を侮辱する若者がいて、言った、「お前は体は大きいし、剣を差すのを好んでいるが、(1)心の中は臆病なだけだ。」と。そして、大勢の前で韓信を辱めて言った、「韓信、もし死ぬ勇気があるなら、俺を刺してみろ。死ぬ勇気がないなら、俺の股の下から出て行け。」と。そこで韓信は、じっとその若者を見つめ、身をかがめて股の下を、腹ばいになって通り抜けた。市場中の人々は皆、韓信を笑い、臆病者だと思った。
(時は流れ…韓信は、漢の大将軍として故郷に凱旋する。)
韓信は国元に着くと、かつて自分に食事を恵んでくれた洗濯女を呼び寄せ、千金を与えた。次に、下郷の南昌の亭長(役人)には、百銭を与えて言った、「あなたは、つまらない人物だ。善行を最後までやり通せなかった。」と。(そして、)自分を侮辱し、股の下をくぐらせたあの若者を呼び寄せ、中尉(都の警備隊長)に任命した。そして、居並ぶ将軍や大臣たちに告げて言った、「(2)この男は、なかなかの勇士だ。あの時、私を侮辱した際に、私がどうして彼を殺せなかっただろうか(いや、殺すことはできた)。しかし、彼を殺したところで、何の武名にもならない。だからこそ、じっとこらえて(股をくぐり)、今日のこの地位にまで至ったのだ。」と。

【設問】

問1 若者が、韓信に「中情怯耳」と言いがかりをつけたのはなぜか。最も適当なものを次から選べ。

  1. 韓信が、立派な剣を持っているにもかかわらず、一度もそれを使ったことがなかったから。
  2. 韓信が、普段から人々の悪口を言って回っていたから。
  3. 韓信が、実際に戦場で敵前逃亡したのを見たことがあったから。
  4. 韓信が、体格に似合わず、いつもおどおどした態度をとっていたから。

問2 韓信が、若者の股の下をくぐるという屈辱的な行為に耐えたのはなぜか。後の韓信自身の言葉から判断して、最も適当なものを次から選べ。

  1. その若者を殺すだけの力が、自分にはなかったから。
  2. その若者を殺してしまえば、自分も死罪となり、将来の夢が絶たれてしまうから。
  3. その場のつまらない若者を殺しても、何の武名にもならず、より大きな目的のためには耐えるべきだと判断したから。
  4. 大勢の前に屈することで、相手を油断させ、後で復讐する機会をうかがっていたから。

問3 傍線部(2)「此壮士也」と、韓信がかつて自分を辱めた若者を評したのはなぜか。その真意として最も適当なものを次から選べ。

  1. 若者が、自分のような将来の大人物を、あの時点で侮辱できたその度胸を評価したから。
  2. 自分に恥をかかせてくれたおかげで、発奮して今日の成功があったのだと、皮肉を込めて感謝したから。
  3. 若者をあえて高く評価してやることで、自分の度量の大きさを示し、諸将の信頼を得ようとしたから。
  4. 若者が、韓信が本当に自分を殺しかねない状況で、堂々と立っていたその勇気を称賛したから。

問4 この「胯下の辱」のエピソードが、韓信の人物像について最も強く示している点は何か。次の中から選べ。

  1. 目先の小さな屈辱に耐えてでも、将来の大きな目的を成し遂げようとする、並外れた忍耐力と大局観。
  2. 恩を受けた者には厚く報い、恨みのある者には相応の報復をする、信賞必罰の公平さ。
  3. 過去の恨みを水に流し、かつての敵さえも許して部下にする、寛大な心。
  4. 若い頃の苦労をバネにして、天下に名を成した、立志伝中の人物としての側面。
【解答・解説】

問1:正解 1

問2:正解 3

問3:正解 3, 4

問4:正解 1

【覚えておきたい知識】

重要単語

背景知識:胯下の辱(こかのじょく)

出典は『史記』淮陰侯列伝。若き日の韓信が、将来の大きな目的のために、目先の小さな屈辱に耐えたという故事。このことから、「胯下の辱」は、大きな目的を達成するために耐え忍ぶ、一時的な恥辱のたとえとして使われる。韓信の並外れた忍耐力を示すエピソードであると同時に、恩には厚く報い(漂母に千金)、中途半端な施しにはそれなりの報い(亭長に百銭)をし、自分を辱めた者さえもその度胸を評価して用いるという、彼の功成り名を遂げた後の、人間的な器の大きさも示している。

レベル:共通テスト標準~発展|更新:2025-07-26|問題番号:090