089(『韓非子』外儲説左上 より 郢書燕説)
本文
郢人有遺燕相国書者。夜書、火不明、因謂持燭者曰、「(1)挙燭。」云而過書「挙燭」。燕相国受書而説之、曰、「挙燭者、尚明也。尚明也者、挙賢而任之。」燕相国白王、王大説、国以治。
治則治矣、(2)非書意也。今世之学者、多似此類。
【書き下し文】
郢人(えいひと)、燕(えん)の相国(しょうこく)に書(しょ)を遺(おく)る者有り。夜、書するに、火(ひ)明らかならず、因(よ)りて燭(しょく)を持つ者に謂(い)ひて曰く、「(1)燭を挙げよ。」と。云(い)ひて過(あやま)ちて「燭を挙げよ」と書す。燕の相国、書を受けて之を説(と)きて、曰く、「燭を挙げよとは、明(めい)を尚(たつと)ぶなり。明を尚ぶとは、賢を挙げて之に任ぜよとなり。」と。燕の相国、王に白(まう)す。王、大いに説(よろこ)び、国、以て治まる。
治まれば則(すなは)ち治まれり、(2)書の意に非(あら)ざるなり。今の世の学者、多(おほ)く此の類(たぐひ)に似たり。
【現代語訳】
(国が)治まったのは治まったのだが、(2)それは手紙の本来の意図ではなかった。今の世の学者たちは、多くがこの(燕の宰相の)類である。
【設問】
問1 傍線部(1)「挙燭」という言葉が、手紙の中に書かれてしまった直接の理由として、最も適当なものを次から選べ。
- 郢人が、手紙の暗号として意図的に書き入れたから。
- 郢人が、召使いに言った言葉を、誤って書き写してしまったから。
- 郢人が、故事を引用して、自分の賢さをアピールしようとしたから。
- 郢人が、燕の政治が暗いことを、比喩的に表現したから。
問2 燕の宰相が、「挙燭」を「賢を挙げて之に任ぜよ」と解釈したのはなぜか。その思考の過程を最もよく説明しているものを次から選べ。
- 「燭」→ 灯火 → 政治の指針、「挙」→ 掲げる → 政策として実行する
- 「燭」→ 明るい → 明晰な頭脳を持つ者、「挙」→ 推挙する → 登用する
- 「燭」→ 火 → 情熱、「挙」→ 称賛する → 抜擢する
- 「燭」→ 夜を照らす → 国の未来を照らす、「挙」→ 育てる → 重用する
問3 傍線部(2)「非書意也」と筆者が断じているのはなぜか。最も適当なものを次から選べ。
- 郢人には、燕の国を治めるような高尚な意図は全くなかったから。
- 燕の宰相の解釈が、郢人の意図とわずかに異なっていたから。
- 郢人が、手紙に書いた内容を後から訂正してきたから。
- 燕の国が治まったのは、宰相の解釈のおかげではなく、全く別の要因があったから。
問4 筆者が「今世之学者、多似此類」と批判している「学者」の態度とはどのようなものか。最も適当なものを次から選べ。
- 偶然の幸運に頼り、地道な努力を怠る態度。
- 結果さえ良ければ、過程の間違いは問題にしないという態度。
- 古い書物の言葉を深読みし、本来の意図とは異なる、もっともらしい解釈を勝手に作り出す態度。
- 他人の誤りを指摘することで、自分の賢さを誇示しようとする態度。
【解答・解説】
問1:正解 2
- 本文に「火明らかならず、因りて燭を持つ者に謂ひて曰く、『燭を挙げよ』と。云ひて過ちて『燭を挙げよ』と書す」とある。灯りが暗かったので、召使いに言った言葉を、うっかりそのまま文字として書きつけてしまった、という単純なミスが原因である。
問2:正解 2
- 燕の宰相は、「挙燭(燭を挙げる)」という具体的な行為を、抽象的な意味に解釈し直した。その連想は、「燭」→「明るい」→「物事を明らかにする能力を持つ者、賢者」となり、それを「挙げる」ことから「賢者を(上の地位へ)推挙し、登用する」という政策へとつなげたと考えられる。この「明るい=賢い」という比喩的な連想が、彼の解釈の根幹にある。
問3:正解 1
- 筆者は、この言葉が手紙に紛れ込んだ経緯を冒頭で説明している。それは、書き手が灯りの暗さから召使いに言った言葉が、偶然紛れ込んだだけの「過ち(間違い)」であった。したがって、そこに燕の国の政治に関する深い意図など、全く存在しなかった。結果的に国は治まったが、それは手紙の本来の意図(書意)では全くなかった、と指摘している。
問4:正解 3
- 韓非子は、法家として、儒家などの学者が古い経典の言葉を様々に解釈し、それを根拠に政治を語ることを批判していた。この寓話は、その批判のたとえである。燕の宰相が、書き間違いにすぎない言葉を深読みして勝手な解釈を作り出したように、今の学者たちも、古代の書物に対して、本来の単純な意図を無視し、自分に都合の良い、もっともらしい深遠な解釈を後から付け加えているだけだ、と皮肉っているのである。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 郢(えい):春秋戦国時代の楚の都。
- 燕(えん):戦国時代の国名。
- 相国(しょうこく):宰相。
- 遺(おく)る:送る、贈る。
- 燭(しょく):ともしび、ろうそく、燭台。
- 尚(たつと)ぶ:尊ぶ、重んじる。
- 白(まう)す:身分の高い人に申し上げる。
- 説(よろこ)ぶ:喜ぶ。
- 虧(か)く:欠ける、損なわれる。
- 学者(がくしゃ):韓非子の文脈では、主に儒家の学者を指すことが多い。
背景知識:郢書燕説(えいしょえんせつ)
出典は『韓非子』外儲説左上篇。『呂氏春秋』にも類話が見られる。郢の人の手紙を、燕の人が(間違って)解釈した、というこの故事から、「郢書燕説」は、本来の意図とは違うのに、もっともらしくこじつけて解釈することのたとえとして使われる。韓非子は、この寓話を用いて、古代の聖王の言葉を自分たちの都合の良いように解釈する儒家の学者たちを痛烈に批判した。結果が良かったとしても(燕国大治)、その解釈の正当性が保証されるわけではないという、冷徹な現実主義が示されている。