083(『戦国策』魏策 より 三人市虎を成す)
本文
龐恭、与太子倶質於邯鄲。謂魏王曰、「(1)今一人言市有虎、王信之乎。」王曰、「否。」「二人言市有虎、王信之乎。」王曰、「寡人疑之矣。」「三人言市有虎、王信之乎。」王曰、「寡人信之矣。」
龐恭曰、「夫市之無虎明矣。(2)然而三人言而成虎。今邯鄲之去魏也、遠於市。而議臣者、過於三人。願王察之。」王曰、「寡人自為知。」
(3)於是辞行、而讒言先至。後太子罷質、龐恭果不得見。
【書き下し文】
龐恭(ほうきょう)、太子(たいし)と倶(とも)に邯鄲(かんたん)に質(ち)たり。魏王(ぎおう)に謂(い)ひて曰く、「(1)今、一人(いちにん)、市(いち)に虎有りと言はば、王之を信ぜんか。」と。王曰く、「否(いな)。」と。「二人(ににん)、市に虎有りと言はば、王之を信ぜんか。」と。王曰く、「寡人(かじん)、之を疑はん。」と。「三人(さんにん)、市に虎有りと言はば、王之を信ぜんか。」と。王曰く、「寡人、之を信ぜん。」と。
龐恭曰く、「夫(そ)れ市の虎無きは明らかなり。(2)然(しか)るに三人言ひて虎を成す。今、邯鄲の魏を去るや、市より遠し。而(しか)して臣を議(ぎ)する者は、三人に過(す)ぐ。願はくは王、之を察せよ。」と。王曰く、「寡人、自(おのづか)ら知るを為(な)さん。」と。
(3)是(ここ)に於(お)いて辞して行くも、讒言(ざんげん)先づ至る。後に太子、質を罷(や)むるも、龐恭、果(は)たして見(まみ)ゆるを得ず。
【現代語訳】
龐恭は言った、「そもそも、市場に虎がいないことは明白です。(2)しかし、三人が同じことを言えば、(ありえないはずの)虎の存在を作り出してしまうのです。さて、邯鄲は魏から遠く離れており、市場よりもはるかに遠いのです。そして(私がいない間に)私の悪口を言う者は、三人どころでは済まないでしょう。どうか王よ、このことをよくお考えください。」と。王は言った、「わかっている、私自身で判断しよう。」と。
(3)そこで龐恭は、王に別れを告げて出発したが、彼に関する中傷の言葉が(彼が帰国するより)先に王のもとへ届いた。後に太子が人質から解放されて帰国したが、龐恭は、案の定、王に会うことさえできなかった。
【設問】
問1 傍線部(1)で龐恭が用いている、相手に質問を重ねて自説に導くこの話し方は、どのような効果を狙ったものか。最も適当なものを次から選べ。
- 王の判断力を試すことで、今後の自分の処遇を決めようとしている。
- ありえない例え話で王を笑わせ、場の空気を和ませようとしている。
- 王自身に段階的に答えさせることで、人間の心理が噂に乗りやすいことを自覚させようとしている。
- 難しい質問を繰り返すことで、王を混乱させ、自分の要求を飲ませやすくしようとしている。
問2 傍線部(2)「然而三人言而成虎」ということわざが示す、人間の心の弱点とは何か。最も適当なものを次から選べ。
- 一度信じ込んだことは、たとえ間違っていてもなかなか訂正できないという弱点。
- 多くの人が言うことは、たとえ嘘であっても、つい真実だと思い込んでしまうという弱点。
- 虎のような恐ろしい話は、たとえ嘘でも信じたくなってしまうという弱点。
- 信頼している人から聞いた話は、たとえ嘘でも無条件に信じてしまうという弱点。
問3 龐恭がこの「市に虎有り」のたとえ話をした、本当の目的は何か。最も適当なものを次から選べ。
- 王が、市場に虎が出るほど治安が悪化していることに気づいていないのを、遠回しに批判するため。
- 自分が人質として不在の間に、ライバルたちが自分の悪口を王に吹き込み、それを王が信じてしまうのではないかと心配しているため。
- 自分が邯鄲に行った後、三人以上の使者を送って、自分の無事を知らせ続ける必要があると訴えるため。
- 邯鄲は非常に危険な場所であり、太子と自分の身の安全を保障してほしいと王に念を押すため。
問4 傍線部(3)「於是辞行、而讒言先至」以下の結末は、何が証明されたことを示しているか。最も適当なものを次から選べ。
- 魏王は、龐恭の心配をよそに、噂に惑わされない賢明な君主であったこと。
- 魏王は、龐恭の心配した通り、多くの者からの中傷を信じ込んでしまったこと。
- 龐恭は、邯鄲で実際に何か問題を起こし、その悪い評判が先に届いてしまったこと。
- 龐恭は、太子を守るという任務を立派に果たして帰国したこと。
【解答・解説】
問1:正解 3
- 龐恭は、一方的に自分の主張を述べるのではなく、「一人が言ったら?」「二人が言ったら?」と王に問いかけ、王自身の口から「信じる」という答えを引き出している。これにより、王は自らの判断がいかに他人の言葉(噂)の数に影響されやすいかを客観的に認識せざるを得なくなる。これは、聞き手自身に結論を導かせる、巧みな説得術である。
問2:正解 2
- 「市に虎有り」というありえない話でも、報告する人数が増えるにつれて、王は「疑い」、ついには「信じ」てしまった。これは、情報の真偽を客観的な事実で判断するのではなく、それを支持する人数の多さで判断してしまうという、人間の心理的な弱点を突いている。
問3:正解 2
- 龐恭は「邯鄲は遠い」「私を中傷する者は三人より多いだろう」と述べている。これは、「市に虎有り」のたとえを自分自身の状況に適用したものである。つまり、自分が遠い人質生活を送っている間に、多くの政敵が自分の讒言(事実無根の悪口)を王に吹き込み、その結果、王が讒言を信じて自分を罰するのではないか、という深い懸念を表明している。
問4:正解 2
- 王は「寡人自為知(私は自分で判断する)」と請け合ったにもかかわらず、結末では「龐恭果不得見(龐恭は案の定、王に会うことさえできなかった)」とある。これは、龐恭の心配が現実となり、王が多くの讒言を真に受けて、功臣である龐恭を信じられなくなってしまったことを示している。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 龐恭(ほうきょう):戦国時代の魏の臣下。
- 質(ち)たり:人質となる。
- 邯鄲(かんたん):戦国時代の趙の都。
- 市(いち):市場。人が多く集まる場所。
- 寡人(かじん):徳の少ない人。王侯の自称(謙譲語)。
- 議(ぎ)す:ここでは、うわさ話をする、悪口を言う。
- 察(さっ)す:よく調べる、真相を見抜く。
- 讒言(ざんげん):他人を陥れるための、事実無根の悪口。
- 果(は)たして:思った通り、案の定。
背景知識:三人市虎を成す(さんにんしこをなす)
出典は『戦国策』魏策(『韓非子』にも類話あり)。ありえないような嘘や噂でも、多くの人が口にするようになると、ついには本当のこととして信じられてしまう、ということのたとえ。この故事から、「三人虎を成す」または「市虎」という言葉が生まれた。これは、噂の恐ろしさや、情報の真偽を確かめることの重要性を示す教訓として用いられる。また、多数派の意見に流されやすい大衆心理や、為政者が讒言に惑わされることの危険性を指摘する際にも引用される。