076(『史記』蘇秦列伝 より 鶏口牛後)
本文
(蘇秦説韓王曰)「大王事秦、秦必求宜陽・成皋。今、大王納之。明年、又求割地。与則無地以与、不与則前功皆棄、而後禍必至。…(中略)…(1)夫為人臣、安能許人乎。
臣聞、『寧為鶏口、無為牛後。』今大王資韓之彊、有帯甲数十万、事秦、臣事之。夫、以大王之賢、挟強韓之兵、而有臣事之名、(2)臣窃為大王羞之。」
韓王忿然作色、攘臂按剣、仰天太息曰、「寡人雖不肖、必不能事秦。今、先生幸教之。寡人敬奉社稷、以従。」
【書き下し文】
(蘇秦(そしん)、韓王(かんおう)に説きて曰く)「大王、秦に事(つか)へば、秦は必ず宜陽(ぎよう)・成皋(せいこう)を求む。今、大王之を納(い)る。明年(みょうねん)、又地を割(さ)くことを求む。与ふれば則(すなは)ち以て与ふる地無く、与へざれば則ち前功(ぜんこう)皆棄(す)てられ、而(して)後の禍(わざは)ひ必ず至らん。…(中略)…(1)夫(そ)れ人の臣と為(な)りて、安(いづく)んぞ能(よ)く人に許さんや。
臣聞く、『寧(むし)ろ鶏口(けいこう)と為(な)るも、牛後(ぎゅうご)と為(な)ること無(な)かれ。』と。今、大王、韓の彊(きょう)に資(よ)り、帯甲(たいこう)数十万を有(たも)ちて、秦に事へ、之に臣事(しんじ)す。夫れ、大王の賢を以て、強韓(きょうかん)の兵を挟(さしはさ)み、而して臣事の名有るは、(2)臣、窃(ひそ)かに大王の為に之を羞(は)づ。」と。
韓王、忿然(ふんぜん)として色(いろ)を作(な)し、臂(ひぢ)を攘(はら)ひ剣に按(あん)じ、天を仰ぎて太息(たいそく)して曰く、「寡人(かじん)、不肖(ふしょう)なりと雖(いへど)も、必ず秦に事ふること能(あた)はじ。今、先生、幸(さいはひ)に之を教ふ。寡人、社稷(しゃしょく)を敬奉(けいほう)し、以て従はん。」と。
【現代語訳】
私が聞いておりますことわざに、『いっそ鶏のくちばしとなっても、牛の尻にはなるな。』とあります。今、大王は韓の国の強さに頼り、数十万の武装した兵士をお持ちでありながら、秦に仕え、その家来となろうとしておられます。そもそも、大王ほどの賢明な方が、強国である韓の軍隊を擁しながら、他国の家来という名を持つことは、(2)私、ひそかに大王のために、それを恥ずかしく思います。」と。
韓王は、かっとなって顔色を変え、腕まくりをして剣の柄に手をかけ、天を仰いで大きくため息をついて言った、「私は不徳者ではあるが、断じて秦に仕えることはできない。今、先生(蘇秦)が幸いにもその道理を教えてくださった。私は、国家を謹んで奉じ、先生の合従策に従いましょう。」と。
【設問】
問1 傍線部(1)「夫為人臣、安能許人乎」とは、秦に仕えることで韓王がどのような立場に追い込まれると指摘したものか。最も適当なものを次から選べ。
- 自国の領地さえも自分の意志で自由にできなくなる、属国の君主という立場。
- 秦の家臣として、他国との交渉を許されなくなる立場。
- 秦の顔色をうかがい、自分の家臣を罰することも許すこともできなくなる立場。
- 秦のために働き、他国に領地を分け与える役目を負わされる立場。
問2 蘇秦が引用したことわざ「寧為鶏口、無為牛後」における「鶏口」と「牛後」は、それぞれ何をたとえているか。最も適当な組み合わせを次から選べ。
- 鶏口:小国の家臣 - 牛後:大国の家臣
- 鶏口:小国の君主 - 牛後:大国の君主
- 鶏口:小国の君主 - 牛後:大国の家臣
- 鶏口:小国の家臣 - 牛後:大国の君主
問3 傍線部(2)「臣窃為大王羞之」という蘇秦の言葉の狙いは何か。最も適当なものを次から選べ。
- 韓王のプライドを巧みに刺激し、秦に仕えることの屈辱を自覚させるため。
- 韓王の判断を愚かだと非難し、自分の意見に従うよう強く迫るため。
- 自分がいかに韓王の身の上を案じているかを伝え、同情を誘うため。
- 自分が韓王の家臣であれば、このような屈辱は感じないだろうと、自分の有能さを示すため。
問4 蘇秦の説得を聞いた後の「韓王忿然作色、攘臂按剣」という行動は、どのような感情の表れか。最も適当なものを次から選べ。
- 蘇秦の無礼な物言いに対する、激しい怒り。
- 秦に従属することの屈辱を悟り、自らの不明を恥じる激しい感情と、秦と戦う決意。
- 蘇秦の弁舌にだまされそうになった自分自身への、いらだち。
- 合従策に参加するかどうか、重大な決断を迫られたことへの、激しい興奮。
【解答・解説】
問1:正解 1
- 蘇秦は、秦に仕えれば領地を次々と要求されると指摘した上で、「人の臣と為りて」と続けている。これは、秦の家来(臣)となってしまえば、一国の君主としての主権を失い、自分の国の領地さえも自分の思い通りにできなくなってしまう、という屈辱的な状況を指している。
問2:正解 3
- 「鶏口」は、小さくても自分の意志で動かせる鶏の「くちばし」であり、小国でも独立した君主であることをたとえる。「牛後」は、大きくても他人に従うしかない牛の「尻」であり、大国に支配される家来(あるいは属国の君主)の立場をたとえる。したがって、「小国の君主」と「大国の家臣(的立場)」の組み合わせが正しい。
問3:正解 1
- 蘇秦は「大王の賢を以て」「強韓の兵を挟み」と韓王を最大限に持ち上げた上で、「それほどの方が他人の家来になるなど、私が恥ずかしく思います」と述べている。これは、韓王自身のプライドに直接訴えかけ、「秦に仕えることは、いかに不名誉で恥ずかしいことか」を強く認識させるための、計算されたレトリック(説得術)である。
問4:正解 2
- 韓王の「忿然」は、単なる蘇秦への怒りではない。蘇秦の言葉によって、秦に仕えることの屈辱、つまり「牛後」となることの「羞」をはっきりと自覚させられ、その屈辱感と、そう考えた自分の不明への怒りが激しい感情となって表れたものである。そして、その感情が「必不能事秦(断じて秦に仕えることはできない)」という強い決意につながっている。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 蘇秦(そしん):戦国時代の縦横家。秦に対抗するため、韓・魏・趙・燕・斉・楚の六国が同盟を結ぶ「合従策」を説いて成功させた。
- 事(つか)ふ:仕える。臣下として主君に仕える。
- 明年(みょうねん):翌年。
- 鶏口(けいこう):鶏のくちばし。小さい組織の長(かしら)のたとえ。
- 牛後(ぎゅうご):牛の尻。大きい組織の下っ端のたとえ。
- 臣事(しんじ):家来として仕えること。
- 窃(ひそ)かに:心中ひそかに。へりくだった気持ちを表す語。
- 忿然(ふんぜん):かっとなって怒るさま。
- 不肖(ふしょう):愚かであること。王侯の自称。寡人と同様の謙譲語。
- 社稷(しゃしょく):土地の神と穀物の神。転じて、国家のこと。
背景知識:鶏口牛後(けいこうぎゅうご)
出典は『史記』蘇秦列伝。戦国時代、強大な秦に対抗するため、蘇秦が韓・魏・趙・燕・斉・楚の六国を説いて南北の同盟(合従策)を結ばせようとした際の逸話。これは韓王を説得した場面である。この故事から、「大きな集団や組織の末端にいるよりも、たとえ小さくともその長となる方がよい」という意味の「鶏口となるも牛後となるなかれ」、略して「鶏口牛後」という言葉が生まれた。独立や自主性を重んじる気概を示す際に用いられる。