075(『荘子』斉物論 より 胡蝶の夢)
本文
昔者、荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。(1)不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。周与胡蝶、則必有分矣。(2)此之謂物化。
【書き下し文】
昔者(むかし)、荘周(そうしゅう)、夢に胡蝶(こちょう)と為(な)る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自(みづか)ら喩(たの)しみて志(こころ)に適(かな)へるかな。周なるを知らざるなり。俄然(がぜん)として覚(さ)むれば、則(すなは)ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。(1)知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。周と胡蝶とは、則ち必ず分(ぶん)有らん。(2)此(こ)れを之(こ)れ物化(ぶっか)と謂(い)ふ。
【現代語訳】
【設問】
問1 夢の中で蝶になっていた時の荘周の心情として、本文の記述に最も合致するものを次から選べ。
- 自分が荘周であることを忘れ、蝶として自由に飛び回ることを心から楽しんでいた。
- いつかはこの楽しい夢から覚めてしまうのではないかと、一抹の不安を感じていた。
- 自分は本当に蝶なのか、それとも荘周が見ている夢なのか、疑問に思いながら飛んでいた。
- 蝶の姿を借りて、人間界を客観的に観察し、思索を深めていた。
問2 傍線部(1)「不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与」という荘周の問いが投げかけている、根源的な疑念とは何か。最も適当なものを次から選べ。
- 人間と蝶では、どちらがより優れた存在であるかという疑念。
- 夢と現実では、どちらがより幸福な時間であるかという疑念。
- 今、自分が現実だと思っているこの世界が、本当に現実なのかという疑念。
- 自分が死んだ後、蝶に生まれ変わることができるのかという疑念。
問3 傍線部(2)「此之謂物化」の「物化」とは、どのような考え方か。この話の文脈に即して、最も適当な説明を次から選べ。
- すべての物は、いずれ形を変えて、より優れたものへと進化していくという考え方。
- 人間と自然、夢と現実といった区別は絶対的なものではなく、万物は絶えず変化し、互いに移り変わっていくという考え方。
- 人間の魂は不滅であり、死後は動物や植物など、様々なものに生まれ変わるという考え方。
- 優れた芸術家は、その精神力で無機物に生命を吹き込むことができるという考え方。
問4 この「胡蝶の夢」の寓話が、読者に伝えようとしている荘子の思想として、最も適当なものを次から選べ。
- 夢と現実の区別がつかなくなるほど、一つの物事に没頭することが大切である。
- 人間中心的な視点を捨て、自分と他者、人間と自然との区別さえも乗り越えた、自由な境地に至るべきである。
- 人生は夢のようにはかないものなので、今この瞬間を存分に楽しむべきである。
- 現実の世界がいかに不自由であるかを自覚し、夢のような理想の世界を追い求めるべきである。
【解答・解説】
問1:正解 1
- 本文に「栩栩然として胡蝶なり。自ら喩しみて志に適へるかな。周なるを知らざるなり」とある。「栩栩然」は生き生きしている様子、「自ら喩しみて志に適へる」は心から楽しんで満足している様子を指す。そして「周なるを知らざるなり」と、荘周であることは完全に忘れていたと明記されている。
問2:正解 3
- 目が覚めた荘周は、「荘周が蝶の夢を見ていたのか、蝶が荘周の夢を見ているのか」わからなくなった。これは、今自分が「現実」だと思っているこの意識や世界も、実は蝶が見ている「夢」かもしれない、という可能性を示唆している。つまり、「現実とは何か」「どうしてこちらが現実で、あちらが夢だと断言できるのか」という、現実存在そのものへの根源的な疑念を投げかけている。
問3:正解 2
- 「物化」とは、万物の変化、流転のこと。荘周と蝶の間には「必ず分有らん(区別はあるはずだ)」としながらも、夢と現実の間でその区別が曖昧になってしまった。この体験を通して、荘子は、我々が普段当たり前だと思っている「私」と「蝶」、「現実」と「夢」といった区別は、実は絶対的なものではなく、万物は流転し、互いに行き来する(=化する)存在なのだ、という道家的な世界観を示している。
問4:正解 2
- この寓話の狙いは、読者を荘周と同じように「現実とは何か」「自分とは何か」という問いに引き込むことにある。荘周が蝶になり、蝶が荘周になるかもしれない、という思考実験を通じて、荘子は「人間(荘周)」という固定的な自己意識や、人間中心的な視点から読者を解放しようとしている。すべての区別を取り払い、万物が流転する様をそのまま受け入れる自由な精神の境地(=斉物)こそが、荘子の目指す理想である。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 荘周(そうしゅう):荘子の本名。ここでは荘子自身を指す。
- 胡蝶(こちょう):蝶。
- 栩栩然(くくぜん):生き生きとして楽しそうなさま。
- 喩(たの)しむ:楽しむ、喜ぶ。
- 俄然(がぜん):にわかに、突然。
- 覚(さ)む:目が覚める。
- 蘧蘧然(きょきょぜん):はっきりしているさま。夢から覚めた現実の自分を指す。
- 分(ぶん):区別、違い。
- 物化(ぶっか):万物がとどまることなく変化していくこと。道家の重要な思想。
背景知識:胡蝶の夢(こちょうのゆめ)・物化
出典は『荘子』斉物論篇。「斉物論」とは、「万物は本質的に斉(ひと)しい」と論じる篇であり、荘子思想の核心部分である。この「胡蝶の夢」は、その思想を最も象徴的に表した寓話として知られる。荘子は、人間が作り出した言葉や常識による区別(例:自分と他人、生と死、夢と現実)は相対的なものでしかないと考えた。この話は、自己と他者、主観と客観の区別さえもが絶対ではないことを示し、そうした区別から解放された自由な精神のあり方(=逍遥遊)を理想とする。人生のはかなさのたとえとして使われることもあるが、本来はより深い哲学的な問いかけを含んでいる。