074(『韓非子』難勢 より 朝三暮四)
本文
宋有狙公者、愛狙、養之成群。能解狙之意、狙亦得公之心。損其家口、充狙之欲。俄而匱、将限其食。恐衆狙之不馴於己也、(1)先誑之曰、「与若芧、朝三而暮四、足乎。」衆狙皆起而怒。俄而曰、「与若芧、朝四而暮三、足乎。」(2)衆狙皆伏而喜。
物之以能鄙相籠、皆此類也。聖人以智籠羣愚、亦猶狙公之以智籠衆狙也。(3)名実不虧、而喜怒為用、亦因其心矣。
【書き下し文】
宋(そう)に狙公(そこう)なる者有り、狙(さる)を愛し、之を養ひて群れを成す。能(よ)く狙の意(こころ)を解し、狙も亦(ま)た公の心を得たり。其の家口(かこう)を損(そん)して、狙の欲を充(み)たす。俄(にはか)にして匱(とぼ)しく、将(まさ)に其の食を限らんとす。衆狙(しゅうそ)の己(おのれ)に馴(な)れざらんことを恐れ、(1)先づ之を誑(あざむ)きて曰く、「若(なんぢ)に芧(ちょ)を与ふるに、朝に三にして暮(くれ)に四にせん、足るか。」と。衆狙皆起(た)ちて怒る。俄にして曰く、「若に芧を与ふるに、朝に四にして暮に三にせん、足るか。」と。(2)衆狙皆伏して喜ぶ。
物の能(のう)を以(もっ)て鄙(ひ)を籠(ろう)するは、皆此(こ)の類(たぐひ)なり。聖人、智を以て群愚(ぐんぐう)を籠するも、亦(ま)た狙公の智を以て衆狙を籠するに猶(な)ほごとし。(3)名実(めいじつ)虧(か)けずして、喜怒(きど)を用(もち)ゐらるるは、亦其の心に因(よ)るなり。
【現代語訳】
知恵のある者が、知恵のない者を言いくるめるのは、みなこの類である。聖人がその知恵で多くの愚かな民衆を操るのも、ちょうど猿回しがその知恵で多くの猿を操るのと同じようなものだ。(3)(与えるトチの)名目や実質(=一日の合計数)は何も変わらないのに、(相手の)喜びや怒りの感情をうまく利用できるのは、やはり相手の(目先のことにこだわる)心につけこんでいるからである。
【設問】
問1 傍線部(1)で狙公が「朝三暮四」を提案したのに対し、傍線部(2)で猿たちが「朝四暮三」に喜んだのはなぜか。その理由として最も適当なものを次から選べ。
- 一日の合計数が七つから八つに増えると思ったから。
- 目先の利益である朝の数が増えたことに、単純に満足したから。
- 自分たちの怒りが狙公に伝わり、要求が通ったと感じたから。
- 夕方よりも朝にたくさん食べる方が、猿の生態に適していたから。
問2 この寓話における「狙公」と「衆狙」は、筆者によれば、現実社会の何にたとえられているか。最も適当な組み合わせを次から選べ。
- 君主 - 臣下
- 聖人 - 愚かな民衆
- 富者 - 貧者
- 主人 - 奴隷
問3 傍線部(3)「名実不虧、而喜怒為用」とは、どういうことか。この寓話の内容に即して説明したものとして、最も適当なものを次から選べ。
- 猿たちの名誉も実利も損なうことなく、彼らの感情を自由に操ったということ。
- 与えるトチの実の一日の合計数という実質は何も変えずに、言い方一つで相手の感情をコントロールしたということ。
- 猿たちに、名誉と実利のどちらかを選ばせることで、彼らの感情を試したということ。
- 猿たちの怒りを買ったことで、狙公の名声も実利も損なわれたということ。
問4 この「朝三暮四」の故事を、筆者(韓非子)がどのような意図で用いているか。最も適当なものを次から選べ。
- 民衆は猿のように愚かであり、目先の利益に惑わされやすいので、為政者は巧みな術策を用いて彼らを導くべきだという、統治術の例として。
- 言葉巧みに人々をだます行為は、たとえ相手が喜んでも許されるべきではないという、倫理的な戒めとして。
- 聖人と呼ばれる人物も、やっていることは猿回しと大差なく、その権威は偽りであるという、儒家思想への批判として。
- 動物と心を通わせる狙公のように、為政者も民衆の心を深く理解することが重要だという、仁政のすすめとして。
【解答・解説】
問1:正解 2
- 「朝三暮四」も「朝四暮三」も、一日の合計は七つで変わらない。猿たちが怒ったり喜んだりしたのは、合計数を理解できず、目先の「朝」にもらえる数が増えたか減ったかという、表面的な違いにしか注目できなかったからである。
問2:正解 2
- 筆者は寓話の後に、「聖人、智を以て群愚を籠するも、亦た狙公の智を以て衆狙を籠するに猶ほごとし」と明確に述べている。これは、「聖人」が「狙公」に、「群愚(愚かな民衆)」が「衆狙(猿たち)」に対応することを示している。
問3:正解 2
- 「名」は言葉の上の名目、「実」は実際の中身を指す。この話では、一日の合計が七つであるという「実」は「虧けず(変わらない)」のに、「朝三暮四」と「朝四暮三」という「名」を変えただけで、猿の「喜怒」の感情を「用ゐ(利用す)」ることができた、という意味である。
問4:正解 1, 3
- この話の解釈は、出典によって異なる。荘子が用いた場合は、「どちらも同じことなのに、こだわり争うのは愚かだ」という、差別のない境地を説く意図がある。しかし、法家である韓非子がこの話を用いる場合は、民衆(=衆狙)がいかに愚かで目先のことに惑わされやすいかを指摘し、為政者(=狙公、聖人)はそうした民衆の性質を理解した上で、巧みな「術(術策)」を用いて統治すべきだ、という統治術の正当化のために使われる。また、儒家の言う「聖人」も、やっていることは民衆を言いくるめているだけで、猿回しと変わらない、という冷笑的な批判の意図も読み取れる。設問の文脈では1が最も直接的だが、韓非子の思想全体を考慮すると3も強い含意として存在する。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 狙公(そこう):猿回し。
- 狙(さる):猿。
- 家口(かこう):家族の食いぶち。家計。
- 匱(とぼ)し:乏しい、貧しい。
- 誑(あざむ)く:だます、言いくるめる。
- 芧(ちょ):トチの実。
- 籠(ろう)する:言いくるめる、手なずける。
- 群愚(ぐんぐう):多くの愚かな人々。
- 名実(めいじつ):名目と実質。
- 虧(か)く:欠ける、損なわれる。
背景知識:朝三暮四(ちょうさんぼし)
出典は『列子』黄帝篇や『荘子』斉物論篇が有名だが、韓非子も引用している。もともと『荘子』などでは、「どちらも本質は同じなのに、表面的な違いにこだわって争う愚かさ」を笑う話、あるいは「対立するものを超えた絶対的な境地」を示す話として使われた。しかし、この故事は後に意味が変化し、現代では主に二つの意味で使われる。①目先の違いに気を取られて、結果が同じであることに気づかない愚かさのたとえ。②言葉巧みに人をだますこと、その場しのぎでごまかすことのたとえ。本文の『韓非子』の文脈では、①の意味で猿の愚かさを指摘し、それを統治の術に応用しようとする意図で語られている。