072(『史記』項羽本紀 より 鴻門の会)
本文
范増、数目項王、挙所佩玉玦者三。項王黙然不応。范増起、出、召項荘、謂曰、「君王為人不忍。若入前為寿、寿畢、請以剣舞、因撃沛公於坐、殺之。不者、若属皆且為所虜。」荘則入為寿。寿畢、曰、「君王与沛公飲、軍中無以為楽。請以剣舞。」項王曰、「諾。」
項荘抜剣起舞。項伯亦抜剣起舞、(1)常以身翼蔽沛公。荘不得撃。
於是張良至軍門、見樊噲。樊噲曰、「今日之事何如。」良曰、「甚急。今者項荘抜剣舞、其意常在沛公也。」噲曰、「此迫矣。臣請入、与之同命。」噲即帯剣擁盾入軍門。…瞋目視項王、頭髮上指、目眦尽裂。項王按剣而跽曰、「(2)客何為者。」張良曰、「沛公之参乗樊噲者也。」項王曰、「壮士。賜之卮酒。」則与斗卮酒。噲拝謝、起、立而飲之。項王曰、「賜之彘肩。」則与一生彘肩。樊噲覆其盾於地、加彘肩上、抜剣切而啗之。
項王曰、「壮士。能復飲乎。」樊噲曰、「臣死且不避、卮酒安足辞。…(3)窃為大王不取也。」
【書き下し文】
范増(はんぞう)、項王(こうおう)に数(しばしば)目(もく)し、佩(お)ぶる所の玉玦(ぎょっけつ)を挙(あ)ぐること三(み)たびす。項王、黙然(もくぜん)として応(おう)ぜず。范増、起(た)ちて出で、項荘(こうそう)を召し、謂(い)ひて曰く、「君王(くんのう)の人と為(な)り、忍(しの)びず。若(なんぢ)、入りて前(すす)み寿(じゅ)を為せ。寿畢(お)はらば、請ふ、剣を以て舞はん。因(よ)りて沛公(はいこう)を坐に撃ち、之を殺せ。不者(しからずんば)、若が属(ぞく)、皆且(まさ)に虜(とりこ)と為(な)らんとするなり。」と。荘、則ち入りて寿を為す。寿畢はりて、曰く、「君王、沛公と飲むに、軍中以て楽を為す無し。請ふ、剣を以て舞はん。」と。項王曰く、「諾(だく)。」と。
項荘、剣を抜き起(た)ちて舞ふ。項伯(こうはく)も亦剣を抜き起ちて舞ひ、(1)常に身を以て沛公を翼蔽(よくへい)す。荘、撃つを得ず。
是に於いて張良(ちょうりょう)、軍門に至り、樊噲(はんかい)に見(まみ)ゆ。樊噲曰く、「今日の事、何如(いかん)。」と。良曰く、「甚(はなは)だ急なり。今者(いま)、項荘、剣を抜き舞ふ、其の意、常に沛公に在るなり。」と。噲曰く、「此れ迫(せま)れり。臣請ふ、入りて、之と命を同じうせん。」と。噲、即ち剣を帯び盾を擁(よう)して軍門に入る。…目を瞋(いか)らして項王を視るに、頭髮(とうはつ)上指(じょうし)し、目眦(もくし)尽(ことごと)く裂く。項王、剣に按(あん)じて跽(ひざまづ)きて曰く、「(2)客(かく)は何為(なに)する者ぞ。」と。張良曰く、「沛公の参乗(さんじょう)、樊噲なる者なり。」と。項王曰く、「壮士(そうし)なり。之に卮酒(ししゅ)を賜(たま)へ。」と。則ち斗卮(とし)の酒を与ふ。噲、拝謝(はいしゃ)し、起ちて、立ちながらにして之を飲む。項王曰く、「之に彘肩(ていけん)を賜へ。」と。則ち一生(いっせい)の彘肩を与ふ。樊噲、其の盾を地に覆(ふ)せ、彘肩を上に加へ、剣を抜き切りて之を啗(くら)ふ。
項王曰く、「壮士よ、能く復(ま)た飲むか。」と。樊噲曰く、「臣、死すら且(まさ)に避けず、卮酒、安(いづく)んぞ辞するに足らん。…(3)窃(ひそ)かに大王の為に取らざるなり。」と。
【現代語訳】
項荘は剣を抜いて立ち上がり、舞い始めた。すると(劉邦側の張良と内通していた)項伯もまた剣を抜いて立ち上がって舞い、(1)常に自分の体で、翼のように劉邦をかばった。そのため、項荘は劉邦を斬ることができなかった。
その頃、張良は陣営の門まで行き、樊噲に会った。樊噲は「今日の様子はどうか。」と尋ねた。張良は「非常に危険な状況だ。たった今、項荘が剣を抜いて舞っているが、その狙いは常に沛公にある。」と言った。樊噲は「これは切迫している。私が入って、沛公と運命を共にしよう。」と言った。樊噲はすぐに剣を身につけ盾を抱えて陣門に押し入った。…(中に入ると)目をかっと見開いて項羽をにらみつけると、髪の毛は逆立ち、まなじりはことごとく裂けんばかりであった。項羽は(思わず)剣の柄に手をかけて身構え、言った、「(2)そなたは何者だ。」と。張良が言った、「沛公の護衛の樊噲という者です。」と。項羽は言った、「立派な男だ。こいつに大杯の酒をやれ。」と。そこで一斗入りの大杯の酒を与えた。樊噲は礼を述べて拝礼し、立ち上がると、立ったままそれを飲み干した。項羽は言った、「豚の肩肉をやれ。」と。そこで生のままの豚の肩肉を一つ与えた。樊噲は盾を地面に伏せて置き、その上に肩肉を乗せ、剣を抜いて切り刻んで、それを食べた。
項羽は言った、「立派な男だ。まだ飲めるか。」と。樊噲は言った、「私は死さえも避けませんのに、一杯の酒をどうして断りましょうか。…(3)(しかし沛公が先に咸陽に入ったのに、大王が彼を攻めようとするのは、亡国の秦の二の舞になるだけです。)ひそかに大王のために、そのようなやり方はお取りにならない方がよいと思います。」と。
【設問】
問1 傍線部(1)「常以身翼蔽沛公」という項伯の行動の理由として、最も適当なものを次から選べ。
- 項荘の剣舞があまりに拙いので、自分が手本を見せようとしたから。
- 項荘の剣舞の本当の狙いが劉邦の暗殺であることを見抜き、それを阻止しようとしたから。
- 座を盛り上げるため、自分も項荘の剣舞に加わろうとしたから。
- 項荘が誤って主君である項羽を傷つけないように、間に入って守ろうとしたから。
問2 傍線部(2)「客何為者」という項羽の問いかけには、どのような感情が込められているか。最も適当なものを次から選べ。
- 見慣れない男の無礼な乱入に対する、強い警戒心と怒り。
- 自らの命を狙う新たな刺客ではないかという、恐怖心。
- その男のただならぬ気迫と勇ましさに対する、驚きと感嘆。
- 宴の場を乱されたことに対する、純粋な好奇心。
問3 樊噲が、項羽の前で酒を飲み干し、生の肉を切り刻んで食べるという豪快な振る舞いを見せた目的は何か。最も適当なものを次から選べ。
- 項荘の剣舞を止めさせ、宴の場の緊張した空気を自分のパフォーマンスで一変させるため。
- 自分の勇気と豪胆さを見せつけることで、項羽に畏敬の念を抱かせ、劉邦暗殺を思いとどまらせるため。
- 劉邦の家臣には、これほど勇猛な武将がいるのだと示し、劉邦を軽んじさせないようにするため。
- 空腹と喉の渇きを我慢できなかったため、項羽の許可を得て堂々と飲食するため。
問4 傍線部(3)「窃為大王不取也」は、樊噲の長いセリフの結びの言葉である。彼はこの言葉で何を主張しているのか。最も適当なものを次から選べ。
- 大王からこれ以上ご馳走を頂くのは、もったいなくてお受けできません。
- 大王が劉邦を殺さず、見逃してやっているそのやり方は、手ぬるいので感心できません。
- 大王が、功績のあった劉邦を攻めるというやり方は、結局大王ご自身のためにならないので、おやめなさい。
- 大王の寛大な処置に感謝し、このご恩は決して忘れません。
【解答・解説】
問1:正解 2
- 項荘の舞の目的は「因りて沛公を坐に撃ち、之を殺せ」とあるように、劉邦の暗殺である。項伯は(張良に恩があり、劉邦を守る約束をしていたため)その意図を見抜き、自らも舞うことで項荘の動きを妨害し、劉邦を「翼蔽(翼で覆うようにかばった)」のである。
問2:正解 3
- 樊噲は「目を瞋らし」「頭髮上指し」「目眦尽く裂く」という、すさまじい形相で登場した。その気迫に、英雄である項羽でさえ「剣に按んじて跽き(剣の柄に手をかけて身構えた)」、思わず「壮士なり」と称賛している。このことから、彼の問いかけは、単なる怒りや警戒心だけでなく、相手の並外れた勇気と気迫に対する驚きと、ある種の感嘆が入り混じったものであることがわかる。
問3:正解 2, 3
- 樊噲の一連の行動は、単なる空腹を満たすためではない。それは、楚の覇王である項羽の前で一歩も引かない豪胆さと、劉邦軍の武威を体現するパフォーマンスである。この圧倒的な存在感を見せつけることで、項羽に「劉邦を殺せば、これほどの猛将が黙ってはいない」と思わせ、暗殺計画を心理的に断念させようとする狙いがある。1も結果としては正しいが、目的としては2や3がより本質的である。
問4:正解 3
- 樊噲は、この直前で「功ある者を誅するは、是れ亡秦の続なり(功績のある者を罰するのは、滅びた秦のやり方を続けることだ)」と述べている。その上で、「大王の為に取らざるなり」と結んでいる。これは、「(劉邦を攻めるという)そのようなやり方は、結局は大王ご自身のためになりませんから、おやめになるべきです」という、強い諌めの言葉である。「窃かに」はへりくだった表現。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 范増(はんぞう):項羽の参謀。「亜父(あふ)(父に次ぐ人)」と呼ばれたが、最後は項羽に疎まれた。
- 玉玦(ぎょっけつ):C字形の玉器。玦は「決」に通じ、決断を促す合図に使われた。
- 沛公(はいこう):劉邦のこと。沛の出身であるためこう呼ばれた。
- 忍(しの)びず:情にもろくて非情なことができない。
- 項伯(こうはく):項羽の叔父。張良と親交があり、この場で劉邦をかばった。
- 翼蔽(よくへい):鳥が翼で雛を覆うように、かばい守ること。
- 樊噲(はんかい):劉邦の配下の猛将。劉邦の妻の妹婿でもある。
- 参乗(さんじょう):主君の乗る車の右に乗って護衛する役。
- 彘肩(ていけん):豚の肩肉。
- 啗(くら)ふ:食べる。
背景知識:鴻門の会(こうもんのかい)
出典は『史記』項羽本紀。秦の滅亡後、項羽と劉邦が天下の覇権を争った「楚漢戦争」の序盤における、最も有名な逸話の一つ。先に関中の都・咸陽を占領した劉邦に対し、圧倒的な兵力を持つ項羽が怒り、これを滅ぼそうとする。劉邦は項羽の陣営がある鴻門に赴き、謝罪の宴会を開いた。この宴席で、項羽の参謀・范増が劉邦暗殺を企てるが、項羽の優柔不断、項伯の裏切り、樊噲の乱入などによって失敗に終わる。この会で劉邦を取り逃がしたことが、後の項羽の敗因に繋がったとされる、天下分け目の重要な場面である。