071(『戦国策』斉策 より 蛇足)
本文
楚有祠者。賜其舎人卮酒。舎人相謂曰、「数人飲之不足、一人飲之有余。請画地為蛇、先成者飲酒。」
一人蛇先成、引酒且飲之。乃左手持卮、右手画蛇曰、「(1)吾能為之足。」未成、一人之蛇成。奪其卮曰、「(2)蛇固無足。子安能為之足。」遂飲其酒。
為蛇足者、(3)終亡其酒。
【書き下し文】
楚(そ)に祠(まつ)る者有り。其(そ)の舎人(しゃじん)に卮酒(ししゅ)を賜(たま)ふ。舎人相(あひ)謂(い)ひて曰く、「数人(すうにん)にて之を飲まば足らず、一人にて之を飲まば余り有り。請(こ)ふ、地を画(ゑが)きて蛇(へび)を為(つく)り、先(ま)づ成る者、酒を飲まん。」と。
一人の蛇、先づ成る。酒を引きて将(まさ)に之を飲まんとす。乃(すなは)ち左手(さて)に卮を持ち、右手(うて)に蛇を画きて曰く、「(1)吾(われ)、能(よ)く之(これ)が足を為る。」と。未(いま)だ成らざるに、一人の蛇成る。其の卮を奪ひて曰く、「(2)蛇は固(もと)より足無し。子(し)、安(いづく)んぞ能く之が足を為るや。」と。遂(つひ)に其の酒を飲む。
蛇の足を為(つく)りし者は、(3)終(つひ)に其の酒を亡(うしな)へり。
【現代語訳】
ある一人の男の蛇が、一番先に完成した。彼は酒を引き寄せて、まさに飲もうとした。その時、左手に酒壺を持ち、右手で(なおも)蛇の絵を描きながら言った、「(1)おれは、こいつに足を描き足すことだってできるぞ。」と。しかし、その足がまだ描き終わらないうちに、別の男の蛇が完成した。その男は、最初の男から酒壺を奪い取って言った、「(2)蛇にはもともと足はない。君は、どうしてそれに足を描くことなどできるのか(いや、できはしない)。」と。そして、とうとうその酒を飲んでしまった。
蛇に足を描き足した男は、(3)結局その酒を飲みそこなってしまった。
【設問】
問1 傍線部(1)「吾能為之足」という男の行動の背景にある心理として、最も適当なものを次から選べ。
- 一番になったものの、自分の絵の出来栄えに満足できなかったという、芸術家としての探究心。
- 他の者よりも圧倒的に早く描き終えたことを誇示し、自分の能力をさらに見せつけようという、傲慢な気持ち。
- 蛇には足があった方がより素晴らしい生き物になるはずだという、生物学的な好奇心。
- 酒を飲む前に、座を盛り上げるための冗談を言おうという、サービス精神。
問2 傍線部(2)「蛇固無足」という、後から描き終えた男の主張の要点は何か。最も適当なものを次から選べ。
- 足を描き加えたことで、その絵はもはや「蛇」ではなくなったので、競争の勝者とは言えない。
- 蛇に足を描くのは、生物の常識に反する行為であり、自然への冒涜である。
- 競争のルールは「蛇を描く」ことであり、足を描くという余計な行為はルール違反である。
- 絵のうまい下手ではなく、いかに本物そっくりに描くかが重要である。
問3 傍線部(3)「終亡其酒」とあるが、最初に蛇を完成させた男が、最終的に酒を失ってしまった最大の原因は何か。最も適当なものを次から選べ。
- 競争に勝った後、すぐに酒を飲まなかったこと。
- 勝利に驕り、しなくてもよい余計なことをしてしまったこと。
- 他の競争相手の進捗状況を、よく見ていなかったこと。
- 自分の絵の腕前を、過信しすぎていたこと。
問4 この「蛇足」の故事が、現代において戒めとして使われるのは、どのような行為に対してか。最も適当なものを次から選べ。
- 物事を始める前に、十分な計画を立てずに行動してしまうこと。
- 完璧に仕上がった物事に対して、さらに余計なものを付け加えて台無しにしてしまうこと。
- 他人の成功を妬み、理屈をつけてその成果を横取りしようとすること。
- 競争に勝つためなら、ルールを無視したり、他人をだましたりすること。
【解答・解説】
問1:正解 2
- 男は一番に蛇を完成させ、酒を飲む権利を得た。その上で、まだ時間があることをいいことに「足まで描けるぞ」と言って見せた。これは、自分の速さと腕前を周りに見せびらかし、優越感に浸ろうとする、傲慢で得意満面な心理の表れである。
問2:正解 1
- 競争の課題は「蛇を描く」ことだった。後の男は、「蛇にはもともと足はない」という事実を根拠に、足が描かれた絵は「蛇」の絵とは言えない、と主張した。つまり、余計なものを付け加えたために、課題の条件を満たさなくなった、という論理で勝利を無効にしたのである。
問3:正解 2
- 男の失敗の直接の原因は、勝った時点ですぐに酒を飲まず、足を描き始めたことにある。しかし、その行動の根本には、勝利に驕り、「もっとうまくやれる」と余計なことをしようとした心がある。この「しなくてもよい蛇足の行為」こそが、勝利を逃した最大の原因である。
問4:正解 2
- 「蛇足」は、文字通り「蛇の足」であり、本来存在しない余計なものを指す。この故事から、物事がすでに十分な状態であるにもかかわらず、さらに何かを付け足そうとして、かえって全体を損なったり、価値を失わせたりする行為のたとえとして使われる。プレゼンテーションで余計な一言を付け加えて台無しにする、などの状況で用いられる。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 祠(まつ)る者:先祖の祭祀を司る人。
- 舎人(しゃじん):家に仕える者、家来。
- 卮酒(ししゅ):壺に入った酒。
- 請(こ)ふ、~:相手に何かを提案する時に使う。「~しようではないか」。
- 画(ゑが)く:絵を描く。 *為(つく)る:作る、描く。
- 固(もと)より:もともと、本来。
- 安(いづく)んぞ~や:「どうして~か、いや~ない」。反語形。
- 亡(うしな)ふ:失う、なくす。
背景知識:蛇足(だそく)
出典は『戦国策』斉策。この話は、戦国時代、斉の国の将軍であった昭陽が、楚を攻めて勝利した後、さらに魏を攻めようとした際に、弁士の陳軫が、昭陽の功績がすでに十分であることを説き、これ以上戦を続けて失敗すれば、今までの功績まで失いかねないと諌めるために用いた寓話である。ここから、あっても益がないばかりか、かえって害になる余計なもののたとえとして「蛇足」という言葉が生まれた。「画竜点睛」が、最後の仕上げの重要性を説くのに対し、「蛇足」はやり過ぎの弊害を説く、対照的な教訓と言える。