052(『荘子』秋水 より 井の中の蛙)
本文
公子牟曰、「吾聞荘子之言、惝然異之。言大非現実、而戯節楽。不近人情焉。…」長梧子曰、「…(1)夫坎井之蛙、不可与語於海者、拘於虚也。夏虫不可与語於氷者、篤於時也。曲士不可与語於道者、束於教也。今爾出於崖涘、観於大海、乃知爾醜。爾将可与語大理矣。」
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井蛙謂東海之鱉曰、「吾楽与。出跳梁於井幹之上、入休於缺甃之崖。赴水則接腋持頤、蹶泥則没足滅跗。還覩夫蟹与科斗、莫吾能若也。且夫擅一壑之水、而跨跱坎井之楽、此亦至矣。夫子奚不時来入観乎。」東海之鱉左足未入、其右膝已縶矣。(2)於是逡巡而却。告之海曰、「夫千里之遠、不足以挙其大。千仞之高、不足以極其深。…夫不為頃久推移、不以多少進退者、此亦東海之大楽也。」(3)於是坎井之蛙聞之、驚駭自失、莫知所止。
【書き下し文】
公子牟(こうしぼう)曰く、「吾(われ)荘子(そうし)の言を聞き、惝然(しょうぜん)として之(これ)を異とす。言、大いにして現実に非ず、而(しか)も戯節(ぎせつ)して楽しむ。人情に近からず。」と。…長梧子(ちょうごし)曰く、「…(1)夫(そ)れ坎井(かんせい)の蛙(かいる)は、以(もっ)て海を語る可(べ)からざるは、虚(きょ)に拘(こだわ)ればなり。夏の虫は、以て氷を語る可からざるは、時に篤(あつ)ければなり。曲士(きょくし)は、以て道を語る可からざるは、教へに束(つか)めらるればなり。今、爾(なんぢ)は崖涘(がいし)を出で、大海を観(み)、乃(すなは)ち爾の醜(しう)を知る。爾、将(まさ)に以て大理を語る可きならん。」と。
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井蛙(せいあ)、東海の鱉(べつ)に謂ひて曰く、「吾(われ)は楽しきかな。出でては井幹(せいかん)の上に跳梁(ちょうりょう)し、入りては缺甃(けっしゅう)の崖(きし)に休(いこ)ふ。水に赴(おもむ)けば則(すなは)ち腋(えき)を接(う)け頤(おとがい)を持(ささ)へ、泥を蹶(ふ)めば則ち足を没し跗(あし)を滅す。還(かへ)りて夫(か)の蟹(かに)と科斗(かと)とを覩(み)るに、吾に能(よ)く若(し)くもの莫(な)し。且(か)つ夫れ一壑(いちがく)の水を擅(ほしいまま)にし、坎井の楽しみを跨跱(こし)するは、此(こ)れ亦(ま)た至れり。夫子(ふうし)、奚(なん)ぞ時に入り来たりて観ざるか。」と。東海の鱉、左足未(いま)だ入らざるに、其の右膝(ゆうしつ)已(すで)に縶(とら)はる。(2)是(ここ)に於(お)いて逡巡(しゅんじゅん)して却(しりぞ)く。之に海を告げて曰く、「夫れ千里の遠きも、以て其の大なるを挙ぐるに足らず。千仞(せんじん)の高さも、以て其の深きを極(きは)むるに足らず。…夫れ頃久(けいきゅう)の為に推移せず、多少を以て進退せざるは、此れ亦東海の大きなる楽しみなり。」と。(3)是に於いて坎井の蛙、之を聞き、驚駭(きょうがい)して自(みづか)ら失ひ、止(とど)まる所を知る莫し。
【現代語訳】
井戸の蛙が、東海の大きな亀に言った、「私はなんと楽しいことか。外に出れば井戸の縁の上で跳ね回り、中に戻れば崩れたレンガの隙間で休む。水に入れば、脇の下とあごを水面に支えられてぷかぷか浮かび、泥を踏めば足が埋もれて気持ちがいい。周りのカニやオタマジャクシを見ても、私ほど楽しめる者はいない。この井戸の水を独り占めし、この場所での楽しみをすべて自分のものにしている、これこそ最高の境地だ。あなたも、どうして時々ここに入ってきて見ていかないのか。」と。東海の亀は、左足もまだ井戸に入りきらないうちに、右ひざがすでにつかえてしまった。(2)そこで、ためらいながら後ずさりした。そして蛙に海の話をして言った、「千里という距離も、海の広さを表すには足りない。千仞という高さも、その深さを言い尽くすには足りない。…長い時間によって変化することもなく、水量の増減によって進退することもない、これこそが東海の大きな楽しみなのだ。」と。(3)これを聞いた井戸の蛙は、あまりのことに驚き、我を忘れて、どうしてよいかわからなくなった。
【設問】
問1 傍線部(1)「夫坎井之蛙、不可与語於海者、拘於虚也」で筆者が言いたいことの説明として最も適当なものを選べ。
- 井戸の蛙は海を知らないので、海のことを話しても無駄である。
- 見識の狭い者は、自分の限られた経験や環境に縛られ、より大きな世界を理解できない。
- 井戸の蛙に海のことを語るには、まず井戸の素晴らしさを認めてやらなければならない。
- 井戸の中という空虚な場所にいると、心がすさんで人の話が聞けなくなる。
- 人間は自分が住む空間の大きさによって、その人格が決まってしまう。
問2 傍線部(2)「於是逡巡而却」とあるが、なぜ東海之鱉(東海の亀)はそのように行動したのか。その理由として最も適当なものを選べ。
- 井戸の中の汚れた水や泥に入るのが嫌で、入るのをためらったから。
- 蛙の得意げな態度に呆れてしまい、相手にするのが馬鹿らしくなったから。
- 井戸が自分の体に対してあまりに小さく、物理的に中に入ることができなかったから。
- 蛙の招待を一度は断り、へりくだった態度を示すのが礼儀だと考えたから。
- 井戸の暗く狭い空間に、本能的な恐怖を感じて後ずさりしてしまったから。
問3 傍線部(3)「於是坎井之蛙聞之、驚駭自失」から読み取れる蛙の心情として、最も適当なものを選べ。
- 自分の住処を亀にけなされたと感じ、激しい怒りで我を忘れている。
- 亀の話がまったく理解できず、混乱してぼうぜんとしている。
- 自分の信じていた世界が全てだと思い込んでいたが、そのあまりの小ささに衝撃を受け、打ちのめされている。
- 自分をだまそうとする亀の嘘を見抜き、驚きあきれている。
- 自分も海へ行ってみたいという強い憧れと羨望の念で、心が一杯になっている。
問4 この寓話が読者に伝えようとしている教訓として、最も適当なものを次のうちから一つ選べ。
- どんなに狭い世界でも、そこで満足して生きることができればそれが一番の幸せである。
- 自分の知識や経験は絶対的なものではなく、より広い世界があることを自覚すべきである。
- 自分より優れた者に会ったときは、謙虚に教えを請う姿勢が大切である。
- 言葉巧みに他人を論破するよりも、ありのままの事実を示す方が説得力がある。
- 大きな世界に住む者は、小さな世界の住人の気持ちを理解し、尊重すべきである。
【解答・解説】
問1:正解 2
- 傍線部は、それに続く「夏虫」「曲士」の例と合わせて読む必要がある。蛙が「虚(空間)」、夏虫が「時(時間)」、曲士(見識の偏った人)が「教(教え)」に「拘(とらわれ)」「束(しばられ)」ていると指摘している。これは単に蛙の話ではなく、人間の見識の狭さについての比喩である。したがって、自分の限られた経験や環境に縛られている状態を指摘した選択肢2が最も的確な説明となる。
問2:正解 3
- 直前の「東海之鱉左足未入、其右膝已縶矣(東海の亀は、左足もまだ井戸に入りきらないうちに、右ひざがすでにつかえてしまった)」という描写が直接的な理由である。亀の体が大きすぎて、井戸の入口を通り抜けられなかった、という物理的な理由を述べた選択肢3が正解。他の選択肢は、亀の心情を推測しているが、本文に直接の根拠はない。
問3:正解 3
- 蛙は亀から、自分の想像をはるかに超える「海」の広大さを聞かされた。それまで「此亦至矣(これこそ最高の境地だ)」と信じていた自分の世界が、いかにちっぽけなものであったかを悟ったのである。「驚駭(ひどく驚く)」「自失(我を忘れる)」という言葉は、その価値観が根底から覆されたことによる衝撃の大きさを表している。したがって、選択肢3が最も蛙の心情に近い。
問4:正解 2
- この寓話は、自分の経験や知識だけが全てだと思い込んでいる「井蛙」のような存在を戒めるものである。長梧子が公子牟にこの話をしたのも、「爾は崖涘を出で、大海を観、乃ち爾の醜を知る(あなたは岸辺を出て大海原を見たことで、自分の見識の狭さを知った)」と述べ、より広い視野を持つことの重要性を説くためであった。したがって、この話全体の教訓は選択肢2となる。
【覚えておきたい知識】
重要句法
- 不可与~(~とともにはべからず):「~することはできない」。不可能を表す。
- 拘於A (Aにかかはる/こだわる):「Aに縛られる、とらわれる」。
- 未~、已… (いまだ~ざるに、すでに…):「まだ~しないうちに、すでに…した」。
- 奚不~乎 (なんぞ~ざるか):「どうして~しないのか」。勧誘・反語を表す疑問形。
重要単語
- 坎井之蛙(かんせいのかいる):井戸の中の蛙。世間知らずのたとえ。= 井蛙(せいあ)。
- 虚(きょ):ここでは空間、くぼみを指す。
- 曲士(きょくし):見識が偏っていて、道理のわからない人。
- 鱉(べつ):スッポン。ここでは大きな亀の意。
- 逡巡(しゅんじゅん):ためらうこと。しりごみすること。
- 驚駭(きょうがい):ひどく驚くこと。
背景知識:井の中の蛙大海を知らず
出典は『荘子』秋水篇。荘子は、老子と思想を同じくする道家(どうか)の代表的な思想家。彼は、人間の知恵や常識は相対的なものでしかなく、絶対的なものではないと考えた。この寓話は、まさにその思想を象徴するもので、「自分の狭い知識や考えにとらわれて、他に広い世界があることを知らない者」を「井の中の蛙」と呼ぶ故事成語の元となった。自分の見識の狭さを知ることこそが、より大きな真理(道)を理解する第一歩であると説いている。