051(『史記』廉頗藺相如列伝 より 完璧)
本文
秦王坐章台見相如。相如奉璧奏秦王。秦王大喜、伝以示美人及左右。左右皆呼万歳。相如視秦王無意償趙城、乃前曰、「璧有瑕。請指示王。」王授璧。(1)相如因持璧、却立、倚柱、怒髪上衝冠。謂秦王曰、「大王欲得璧、使人発書至趙王。趙王悉召群臣議、皆曰、『秦貪、負其彊、以空言求璧。償城恐不可得。』議不欲予秦璧。臣以為布衣之交、尚不相欺。況大国乎。且以一璧之故、逆彊秦之驩、不可。於是趙王遂斎戒五日、使臣奉璧、拝送書於庭。何者。厳大国之威以修敬也。今臣至、大王見臣列観、礼節甚倨。得璧、伝之美人、以戯弄臣。臣観大王無意償趙城邑。故臣復取璧。大王必欲急臣、臣頭今与璧倶砕於柱矣。」相如持其璧、睨柱、欲以撃柱。(2)秦王恐其破璧、乃辞謝、固請。召有司案図、指从此以往十五都予趙。相如度秦王(3)特以詐詳為予趙城、実不可得、乃謂秦王曰、「和氏璧、天下所共伝宝也。趙王恐、不敢不献。趙王送璧時、斎戒五日。今大王亦宜斎戒五日、設九賓於廷、臣乃敢上璧。」秦王度之、終不可彊奪、遂許斎五日。
【書き下し文】
秦王、章台(しょうだい)に坐(ざ)して相如(しょうじょ)に見(まみ)ゆ。相如、璧(へき)を奉(ほう)じて秦王に奏(そう)す。秦王大(おほ)いに喜び、伝へて以て美人及び左右に示す。左右皆万歳を呼ぶ。相如、秦王に趙に城を償(つぐな)ふ意(こころ)無きを視(み)、乃(すなは)ち前(すす)みて曰く、「璧に瑕(きず)有り。請(こ)ふ、王に之を指し示さん。」と。王、璧を授く。(1)相如、因(よ)りて璧を持ち、却立(きゃくりつ)し、柱に倚(よ)り、怒髪(どはつ)天を衝(つ)きて冠(かんむり)を上(あ)ぐ。秦王に謂(い)ひて曰く、「大王、璧を得んと欲し、人をして書を発して趙王に至らしむ。趙王、悉(ことごと)く群臣を召して議(ぎ)せしむるに、皆曰く、『秦は貪(どん)にして、其の彊(きょう)に負(たの)み、空言(くうげん)を以て璧を求む。償城(しょうじょう)は恐らくは得べからず。』と。議して秦に璧を予(あた)へんと欲せず。臣以為(おも)へらく、布衣(ふい)の交はりすら、尚(な)ほ相(あひ)欺かず。況(いは)んや大国をや。且(か)つ一璧の故を以て、彊秦(きょうしん)の驩(かん)を逆(むか)ふること、不可なり、と。是(ここ)に於いて趙王、遂(つひ)に斎戒(さいかい)すること五日、臣をして璧を奉ぜしめ、庭に於いて書を拝送せしむ。何者(なんとなれば)。大国の威を厳(おもん)じて以て敬を修むればなり。今、臣至るに、大王、臣を列観(れっかん)に見(まみ)え、礼節(れいせつ)甚(はなは)だ倨(おご)る。璧を得て、之を美人に伝へ、以て臣を戯弄(ぎろう)す。臣、大王の趙に城邑(じょうゆう)を償ふ意無きを観る。故に臣、復(ま)た璧を取る。大王必ず臣に急(せま)らんと欲せば、臣が頭(かうべ)は今、璧と倶(とも)に柱に砕けん。」と。相如、其の璧を持ち、柱を睨(にら)み、以て柱に撃ちつけんと欲す。(2)秦王、其の璧を破らんことを恐れ、乃ち辞謝(じしゃ)し、固く請ふ。有司(ゆうし)を召して図を案(あん)じ、此(ここ)より以往(いおう)の十五都(と)を趙に予ふと指さす。相如、秦王の(3)特(た)だ詐(いつは)りて詳(いつは)りて趙に城を予へんと為(な)すを以て、実に得べからずと度(はか)り、乃ち秦王に謂ひて曰く、「和氏(かし)の璧は、天下の共に伝ふる宝なり。趙王、恐れ、敢へて献ぜずんばあらず。趙王、璧を送る時、斎戒すること五日。今、大王も亦(ま)た宜(よろ)しく斎戒すること五日、九賓(きゅうひん)を廷に設け、臣乃ち敢へて璧を上(たてまつ)るべし。」と。秦王之を度り、終(つひ)に彊(し)ひて奪ふべからず、遂に五日斎戒することを許す。
【現代語訳】
【設問】
問1 傍線部(1)「相如因持璧、却立、倚柱、怒髪上衝冠」とあるが、このような藺相如の行動の意図の説明として最も適当なものを選べ。
- 秦王の無礼な態度に本心から激怒し、感情の高ぶりを抑えきれなくなったため。
- 璧を人質にして秦王を脅し、交渉の主導権を奪い返すための、計算された行動であるため。
- 強力な秦王の威圧感に気圧され、恐怖のあまり後ずさりして柱にすがりついてしまったため。
- 璧を騙し取られたふりをして油断させ、隙を見て璧と共に秦の宮殿から逃亡しようとしたため。
- これから述べる長広舌に備え、発言しやすい体勢をとり、精神を集中させるため。
問2 傍線部(2)「秦王恐其破璧、乃辞謝」で見せた秦王の態度の変化の説明として、最も適当なものを選べ。
- 藺相如の忠義心と趙王の誠意に心から感動し、自らの非礼を深く反省した。
- 何よりもまず璧が無事であることを優先し、藺相如をなだめるために表面上は下手に出た。
- 頭を柱に打ち付けて死ぬという藺相如の狂気に恐怖し、錯乱して謝罪の言葉を述べた。
- 使者を死なせてしまっては趙との戦争になりかねないと判断し、外交問題への発展を避けた。
- 側近や美人の前で恥をかかされたことへの怒りを抑え、冷静に報復の機会をうかがった。
問3 傍線部(3)「特」は「特以詐詳為予趙城」の中で、どのような意味で使われているか。最も近いものを一つ選べ。
- 特別に
- わざと
- 単に・ただ~だけ
- とりわけ
- 意外にも
問4 本文全体の内容と合致するものを、次のうちから一つ選べ。
- 藺相如は、秦王が約束通り城を譲ってくれるものと信じて璧を渡した。
- 秦王は、璧を手に入れるとすぐに、趙に十五の都市を与える手続きを命じた。
- 藺相如は、秦王が本当に城を与える気になったと判断し、安心して璧を返そうとした。
- 藺相如は、命がけの交渉と策略によって、最終的に秦王に斎戒を約束させた。
- 秦王は、藺相如の提案を受け入れ、すぐに九賓の礼を設けて丁重に璧を受け取った。
【解答・解説】
問1:正解 2
- 選択肢1:もちろん怒りはあるが、それは彼の知略の一部。単に感情的になったのではなく、怒りを武器として利用している。本文後半で冷静に次の交渉手続を提案していることからも、計算された行動であることがわかる。
- 選択肢2:◎ 秦王に城を渡す気がないと見るや、「璧に瑕あり」と嘘をついて璧を取り戻し、即座に柱を背に「璧もろとも砕く」と脅す一連の流れは、交渉の形勢を逆転させるための周到な策略である。
- 選択肢3:恐怖しているのではなく、怒りを示して相手を威圧している。「怒髪天を衝く」という描写からも明らか。
- 選択肢4:逃亡しようとはしていない。あくまで交渉によって璧を守り、趙の面子を保とうとしている。
- 選択肢5:精神集中はしているだろうが、主目的は物理的に璧を人質にとり、王を脅迫することにある。
問2:正解 2
- 選択肢1:王が感動したり反省したりしたという記述はない。あくまで璧を失うことを恐れての行動である。
- 選択肢2:◎ 「秦王恐其破璧(秦王、其の璧を破らんことを恐れ)」と明確に書かれている通り、王の最大の関心事は璧の確保にある。そのため、ひとまず言葉を和らげ謝罪する(辞謝)という態度に出た。
- 選択肢3:恐怖はしたが、「錯乱」は言い過ぎ。役人に地図を調べさせるなど、冷静な部分も残っている。
- 選択肢4:外交問題への懸念も背景にはあるだろうが、直接の動機として本文に明記されているのは「璧を破られることへの恐れ」である。
- 選択肢5:怒りを抑えているのは事実かもしれないが、「辞謝」という行動は報復の機会をうかがう態度とは直接結びつかない。まずこの場を収めることが優先されている。
問3:正解 3
- 「特以詐詳為予趙城」は「特だ(ただ)詐りて詳りて(いつわって)趙に城を予へんと為すを以て(もって)」と読む。「口先だけで、偽って城を与えようとしている」という意味になり、「特」は限定の意で「単に~だけ」と解釈するのが最も適切である。
問4:正解 4
- 選択肢1:「相如視秦王無意償趙城」とあるように、藺相如は最初から秦王を疑っていた。
- 選択肢2:秦王は「指从此以往十五都予趙」と地図を指し示しただけで、これは藺相如をなだめるためのパフォーマンスに過ぎない。実際の手続きは命じていない。
- 選択肢3:「相如度秦王特以詐詳為予趙城」とあるように、藺相如は秦王の申し出が嘘であると見抜いている。
- 選択肢4:◎ 藺相如は「頭は璧と共に砕けん」と命を懸け、さらに「斎戒五日」「九賓の礼」という次の条件を提示する策略で、最終的に秦王に譲歩させ、斎戒を約束させた。本文の内容と合致する。
- 選択肢5:斎戒を「許」しただけで、すぐに儀式を執り行ったわけではない。この後、藺相如は密かに璧を趙へ送り返すことになる。
【覚えておきたい知識】
重要句法
- 使A動詞 (Aをして~しむ):「Aに~させる」。使役形。本文では「使臣奉璧」。
- 以為 (おもへらく):「~と思う」「~と考える」。自分の意見を述べるときに使う。
- 況~乎 (いはんや~をや):「ましてや~はなおさらだ」。抑揚形。多くは反語を伴う。
- 何者 (なんとなれば):「なぜならば」。理由を説明する際に文頭に置く。
- 不可 (べからず):「~できない」「~してはならない」。不可能・禁止を表す。
重要単語
- 璧(へき):中心に穴のあいた円盤状の玉。ここでは天下の名宝「和氏の璧」を指す。
- 奏す(そうす):臣下から君主へ物を献上する。意見を申し上げる。
- 瑕(きず):玉などのきず。欠点。
- 却立(きゃくりつ):後ずさりして立つ。
- 布衣(ふい):麻や木綿の服。転じて、官位のない庶民を指す。
- 斎戒(さいかい):神聖な儀式の前に、飲食や行動を慎み、心身を清めること。
- 九賓(きゅうひん):古代中国の最も丁寧な外交儀礼。
- 度る(はかる):推し量る。判断する。
背景知識:完璧(かんぺき)
出典は司馬遷の『史記』「廉頗藺相如列伝」。秦の昭王が、趙の恵文王が持つ名宝「和氏の璧」を、十五の城と交換しようと持ちかけた。しかし強大な秦が約束を守る保証はなく、趙は使者の人選に窮する。この時、一介の食客であった藺相如が抜擢され、秦へ赴いた。本問は、秦王が約束を破ろうとした際、藺相如が知恵と度胸で璧を無事守り抜く場面である。この故事から、欠点がなく完全に整っていることを「完璧」と言うようになった。この後の、藺相如と名将・廉頗の「刎頸の交わり」の逸話も有名である。