069(『韓非子』難一 より 矛盾)
本文
楚人有鬻盾与矛者、誉之曰、「吾盾之堅、(1)物莫能陥也。」又誉其矛曰、「吾矛之利、(2)於物無不陥也。」或曰、「以子之矛、陥子之盾、何如。」(3)其人弗能応也。
夫不可陥之盾、与無不陥之矛、不可同世而立。今堯・舜倶善、而曰、「聖王不相襲、時世異也。」夫不相襲、則其所為相詭也。皆善、此乃矛盾之説也。夫郷党之人、不能両誉者、其所謂誉者、不実也。
【書き下し文】
楚人(そひと)に盾(たて)と矛(ほこ)とを鬻(ひさ)ぐ者有り、之を誉(ほ)めて曰く、「吾(わ)が盾の堅きこと、(1)物として能(よ)く陥(とほ)すもの莫(な)きなり。」と。又(ま)た其の矛を誉めて曰く、「吾が矛の利きこと、(2)物に於(お)いて陥さざる無きなり。」と。或(あ)るひと曰く、「子の矛を以(もっ)て、子の盾を陥さば、何如(いかん)。」と。(3)其の人、応(こた)ふること能(あた)はざるなり。
夫(そ)れ陥(とほ)す可(べ)からざるの盾と、陥さざる無きの矛とは、同(おな)じき世に立つ可からず。今、堯(ぎょう)・舜(しゅん)は倶(とも)に善(ぜん)なり、而(しか)るに曰く、「聖王(せいおう)は相(あひ)襲(つ)がず、時世(じせい)異なればなり。」と。夫れ相襲がずんば、則ち其の為(な)す所は相(あひ)詭(そむ)くなり。皆善なりとは、此(こ)れ乃(すなは)ち矛盾の説なり。夫れ郷党(きょうとう)の人、両(ふた)つながら誉(ほ)むること能はざる者は、其の所謂(いはゆる)誉むる者は、実ならざるなり。
【現代語訳】
そもそも、絶対に突き通せない盾と、絶対に突き通せないものはない矛が、同じ世界に両立することはありえない。今、(儒家たちは)堯と舜はどちらも優れた聖王だと言う。しかし一方で、「聖王のやり方は互いに受け継がれるものではない、時代が違うからだ」とも言う。そもそも互いにやり方を受け継がないのなら、その行いは互いに食い違っているはずだ。それなのに両方とも優れているというのは、これこそが矛盾した説である。そもそも、村里の人で、二人を同時に褒めることができないような人物は、その褒めているとされる人物が、本当は優れていないということなのだ。
【設問】
問1 傍線部(1)「物莫能陥也」と傍線部(2)「於物無不陥也」のそれぞれの解釈として、最も適当な組み合わせを次から選べ。
- (1)どんな物も突き通すことはない - (2)どんな物でも突き通せるとは限らない
- (1)どんな物も突き通すことができない - (2)突き通せない物はない
- (1)ある物は突き通すことができない - (2)ある物は突き通すことができる
- (1)どんな物によっても突き通されることはない - (2)突き通せない物はない
問2 傍線部(3)「其人弗能応也」とあるが、商人が答えられなかった根本的な理由は何か。最も適当なものを次から選べ。
- 自分の商品の性能を試されるのが怖くなったから。
- 客の質問があまりに意地悪で、腹を立ててしまったから。
- 自分の二つの宣伝文句が、論理的に両立しないことを指摘されたから。
- どちらの商品を優先して売るべきか、瞬時に判断できなかったから。
問3 筆者は、この「矛盾」の寓話を何のために持ち出したのか。後半の文章から判断して、最も適当なものを次から選べ。
- やり方が互いに違う堯と舜を、どちらも聖王だと主張する儒家の説の論理的欠陥を批判するため。
- 武器商人の誇大広告がいかに当てにならないかを、実例を挙げて説明するため。
- 古代の聖王である堯や舜も、完璧な人間ではなかったということを論証するため。
- 時代が違えば政治のやり方が変わるのは当然である、という自説を補強するため。
問4 この文章で筆者が用いている論法として、最も適当なものを次から選べ。
- 具体的な寓話を用いて聞き手の興味を引き、そこから抽象的な議論へと展開していく帰納的な論法。
- まず一般的な法則を示し、その後に具体的な事例を挙げて自説の正しさを証明していく演繹的な論法。
- 二つの異なる事象を並べて比較し、その共通点や相違点を分析していく比較論法。
- 身近なたとえ話を用いて、難解な政治理論をわかりやすく説明していく類推(アナロジー)による論法。
【解答・解説】
問1:正解 4
- (1)「莫能陥」は「能く陥すもの莫し」と読み、「陥す(突き通す)ことができるものは何もない」という意味。つまり「どんな物によっても突き通されない」。(2)「無不陥」は「陥さざるは無し」と読み、「突き通さないことはない」という二重否定で、「必ず突き通す(=突き通せない物はない)」という強い肯定になる。したがって4の組み合わせが最も正確である。
問2:正解 3
- 「絶対に突き通せない盾」と「絶対に何でも突き通せる矛」は、同時に存在しえない。客の質問は、この二つの主張が論理的に両立しない(=矛盾している)ことを鋭く突いたものである。商人はこの矛盾に気づき、どう答えても自分の宣伝文句のどちらかが嘘になってしまうため、答えに窮したのである。
問3:正解 1
- 筆者は「矛盾」の話をした直後に、「今、堯・舜は倶に善なり、而るに曰く、『聖王は相襲がず…』」と、儒家の堯・舜崇拝の議論を持ち出している。そして「皆善なりとは、此れ乃ち矛盾の説なり」と断じている。このことから、矛盾の寓話は、やり方が違う(=相詭く)のに二人とも最高だとする儒家の主張がいかに非論理的であるかを批判するための導入(たとえ話)として使われていることがわかる。
問4:正解 4
- 筆者は、「矛と盾」という具体的な道具の話(たとえ話)を用いて、「堯と舜」という抽象的な政治思想上の問題点をわかりやすく説明している。このように、ある領域(A)の物事を説明するために、それと構造が似ている別の領域(B)の物事を引き合いに出して説明する論法を「類推(アナロジー)」と言う。
【覚えておきたい知識】
重要句法
- 莫能~ (よく~するはなし):「~できるものは何もない」。不可能を表す。
- 無不~ (~ざるはなし):「~ないものはない」。二重否定であり、強い肯定(「必ず~する」)を表す。
- 弗能~ (~することあたはず):「~することができない」。不可能を表す。「不」よりも強い否定。
- 不可~ (~べからず):「~できない」「~してはならない」。不可能・禁止。
重要単語
- 鬻(ひさ)ぐ:商品を売る。行商する。
- 誉(ほ)む:ほめる。自慢する。
- 陥(とほ)す:突き通す。貫く。
- 或(あ)るひと:ある人。不特定の人を指す。
- 堯(ぎょう)・舜(しゅん):古代中国の伝説上の聖王。儒家によって理想の為政者とされた。
- 詭(そむ)く:そむく、食い違う。
背景知識:矛盾(むじゅん)
出典は『韓非子』難一篇。「難」とは、他人の説の難点を問いただす、の意。この話は、弁論における論理的な矛盾を指摘する例として挙げられている。ここから、二つの事柄のつじつまが合わないことを意味する「矛盾」という故事成語が生まれた。韓非子は、現実の社会状況に即した厳格な「法」による統治を主張し、儒家が理想とするような、曖昧で時代遅れの「徳」や過去の聖王のやり方を、しばしばこのような論理的な寓話を用いて批判した。