068(『孟子』公孫丑上 より 浩然の気)
本文
公孫丑問曰、「夫子加斉之卿相、得行道焉、雖由此覇王不異矣。如此、則動心否乎。」孟子曰、「否。我四十不動心。」曰、「若是、則夫子過孟賁遠矣。」曰、「是不難。告子先我不動心。」曰、「不動心有道乎。」曰、「有。…(1)我知言、我善養吾浩然之気。」
曰、「敢問何謂浩然之気。」曰、「難言也。其為気也、至大至剛、以直養而無害、則塞於天地之間。其為気也、配義与道。無是、餒也。(2)是集義所生者、非義襲而取之也。行有不慊於心、則餒矣。…必有事焉而勿正、心勿忘、勿助長也。無若宋人然。宋人有閔其苗之不長而揠之者。芒芒然帰、謂其人曰、『今日病矣。予助苗長矣。』其子趨而往視之、苗則槁矣。」
【書き下し文】
公孫丑(こうそんちゅう)問ひて曰く、「夫子(ふうし)、斉(せい)の卿相(けいしょう)に加(くは)はり、道を行ふを得んか、此(これ)に由(よ)りて覇王(はおう)たると雖(いへど)も異(い)ならず。此(かく)の如(ごと)くんば、則(すなは)ち心を動かさんか否(いな)か。」と。孟子(もうし)曰く、「否。我四十にして心を動かさず。」と。曰く、「是(かく)の若(ごと)くんば、則ち夫子、孟賁(もうふん)に過(す)ぐること遠し。」と。曰く、「是(こ)れ難(かた)からず。告子(こくし)、我に先(さき)だちて心を動かさず。」と。曰く、「心を動かさざるに道有りや。」と。曰く、「有り。…(1)我、言を知る、我、善(よ)く吾(わ)が浩然(こうぜん)の気を養ふ。」と。
曰く、「敢(あ)へて問ふ、何を浩然の気と謂(い)ふか。」と。曰く、「言うこと難(かた)し。其の気たるや、至大(したい)至剛(しごう)にして、直(ちょく)を以て養ひて害(そこな)ふこと無くんば、則ち天地の間に塞(ふさ)がる。其の気たるや、義と道とに配(はい)す。是(これ)無くんば、餒(う)うるなり。(2)是(こ)れ義を集めて生ずる者にして、義、襲(おそ)ひて之を取るに非(あら)ざるなり。行ひて心に慊(こころよ)からざること有らば、則ち餒うるなり。…必ず事とすること有れども正(せい)すること勿(なか)れ、心に忘るること勿かれ、助長(じょちょう)すること勿かれ。宋人(そうひと)の若(ごと)くあること無かれ。宋人に其の苗の長ぜざるを閔(うれ)へて之を揠(ぬ)く者有り。芒芒然(ぼうぼうぜん)として帰り、其の人に謂ひて曰く、『今日病(つか)れたり。予(われ)、苗を助けて長ぜしむ。』と。其の子、趨(はし)りて往(ゆ)きて之を視れば、苗は則ち槁(か)れたり。」と。
【現代語訳】
公孫丑は言った、「お尋ねします、何を浩然の気というのですか。」と。孟子は言った、「言葉で説明するのは難しい。その気というのは、この上なく大きく、この上なく強く、まっすぐな心で養って損なうことがなければ、天地の間に満ちあふれる。その気というのは、常に『義』と『道』と共にある。これらがないと、(気は)しぼんでしまうのだ。(2)これは、日々の正しい行いを積み重ねることで生まれるものであり、正義を装った一回限りの行為で手に入るものではない。行いの中に一つでも心にやましいことがあれば、(気は)しぼんでしまう。…(気を養うには)必ず(義を行うことを)実践し続けて、しかし(結果を)期待してはならず、心に忘れてもならず、成長を無理に助けてもいけない。あの宋の国の人のようにあってはならない。宋の人に、自分の苗がなかなか成長しないのを心配して、苗を(手で)引き抜いてやった者がいた。へとへとになって家に帰り、家族に言うことには、『今日は疲れた。苗が育つのを手伝ってやったのだ。』と。その息子が走って見に行くと、苗はみな枯れてしまっていた。」と。
【設問】
問1 傍線部(1)「我知言、我善養吾浩然之気」とあるが、孟子によれば、彼の「不動心」は何によって支えられているか。二つ選べ。
- 強靭な意志と、長年の経験。
- 言葉の本質を見抜く知力と、内なる道徳的エネルギー。
- 健康な身体と、豊かな感受性。
- 冷静な判断力と、他人の意見に惑わされない主体性。
- 勇者孟賁にも勝る、生まれつきの勇気。
問2 傍線部(2)「是集義所生者、非義襲而取之也」とは、「浩然の気」のどのような性質を説明したものか。最も適当なものを次から選べ。
- 正義のための戦いによってのみ得られる、特別な力である。
- 一度手に入れれば、二度と失われることのない、安定したものである。
- 一朝一夕に得られるものではなく、日々の正しい行いの地道な積み重ねによって育まれるものである。
- 義について深く思索することで、ある日突然会得できるものである。
問3 孟子が最後に挙げた「宋人」の逸話は、何を戒めるためのたとえか。最も適当なものを次から選べ。
- 結果を焦り、人為的に無理なことをして、かえって物事を台無しにしてしまうこと。
- 自分の手柄を家族に自慢し、他人からの称賛を求めてしまうこと。
- 農業に関する知識がないのに、思い込みで行動してしまうこと。
- 子供に心配をかけ、家族に迷惑をかけてしまうこと。
問4 この対話全体から考えられる、孟子が理想とする「不動心」とはどのようなものか。最も適当なものを次から選べ。
- どんなことにも感情を動かさず、常に冷静沈着でいられる精神状態。
- 自らの道徳的な正しさへの絶対的な確信に裏打ちされた、ゆるぎない精神状態。
- 他人の言葉や評価を一切気にしない、孤高で超然とした精神状態。
- 危険や困難に直面しても、決して恐れることのない、勇猛果敢な精神状態。
【解答・解説】
問1:正解 2, 4
- 孟子は自らの不動心の根拠を「我知言(私は言葉を知る)」と「我善養吾浩然之気(私は浩然の気を養うのが得意だ)」の二点に置いている。「知言」は言葉の裏にある真意や是非を見抜く知的な能力を指し、選択肢2、4の内容を含む。「浩然の気」は日々の正しい行いによって養われる道徳的なエネルギーであり、選択肢2の内容に対応する。最も直接的に対応するのは2であり、4も「知言」の能力から導かれる。設問の意図としては2が最も確実な正解。
問2:正解 3
- 「集義」とは義を積み重ねること。「義襲」とは、義が一回だけうわべを襲う(取り繕う)こと。つまり、「浩然の気」は、普段からの地道な正しい行いの「集積」によって内側から生まれるものであり、一回限りの正義ぶった行為で外から「襲って」手に入れられるものではない、と説明している。これは、継続的な実践の重要性を説いており、選択肢3が最も的確である。
問3:正解 1
- 宋の男は、苗の成長という自然のペースを待てず、「助長(成長を助けよう)」として苗を引っ張るという人為的な行為に及んだ結果、苗を枯らしてしまった。孟子はこれを「浩然の気」の養成法にたとえ、結果を焦って無理やり気を大きくしようとすれば、かえって気を損なってしまう、と戒めている。この故事から「助長」という言葉が生まれた。
問4:正解 2
- 孟子の不動心は、単なる精神論や勇気ではなく、「浩然の気」に支えられている。そしてその「浩然の気」は、「義と道」に基づき、「行ひて心に慊からざること有」ればしぼんでしまう。つまり、孟子の不動心とは、日々正しい行いを積み重ね、自分の心に一切やましいところがないという道徳的な確信から生まれる、ゆるぎない強さであると言える。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 夫子(ふうし):先生。弟子が師を敬っていう言葉。
- 卿相(けいしょう):大臣、宰相。国の最高位の官職。
- 不動心(ふどうしん):何事にも動じない心。
- 浩然の気(こうぜんのき):孟子が説いた、天地に満ちる、この上なく広大で剛直な根源的エネルギー。道義的な実践によって養われる。
- 配(はい)す:対になる、組み合わせる。
- 餒(う)う:飢える、しぼむ、元気がなくなる。
- 集義(しゅうぎ):正しい行いを積み重ねること。
- 慊(こころよ)し:満足する、心にかなう。ここでは「不慊」で「心にやましい」。
- 助長(じょちょう):成長を助けること。この故事から、不必要な手助けをしてかえって害になる、という意味で使われるようになった。
- 槁(か)る:枯れる。
背景知識:浩然の気(こうぜんのき)
出典は『孟子』公孫丑上篇。孟子思想の中核をなす概念の一つ。単なる勇気や気迫ではなく、道徳的な実践によってのみ養われる、宇宙的なエネルギーとされる。孟子は、人間は誰でも善性(仁義礼智)を持っていると考える「性善説」を唱えたが、「浩然の気」はその善性を実践し、積み重ねていくことで得られる、いわば道徳的な自信が昇華したものである。自分の行いにやましさがなく、正しい道を歩んでいるという確信がある時、その人の心はゆるぎなく、その身には天地に満ちるエネルギーが宿る、と考えたのである。