067(『十八史略』より 臥薪嘗胆)
本文
越王勾践、呉に敗れ、会稽に棲む。臣辱められ、妾辱められ、身、呉王の奴と為る。呉王、車の前に被駆し、勾践、馬を御し、妃、糞を灑掃す。…(中略)…
勾践、国に反り、(1)坐臥に胆を嘗め、曰く、「女、会稽の恥を忘れたるか。」と。身、親ら耕し、夫人、親ら織る。食に肉を加え不、衣に彩を重不。賢を卑下し、士を尊び、死を弔ひ、疾を問ひ、百姓と其の労を同じくす。
呉王夫差、将に斉を伐たんとす。子胥諌めて曰く、「勾践、食を減じ、兵を弔ひ、此れ必ず呉に報いんとする有り。呉に越有るは、人の心腹の疾有るがごときなり。(2)願はくは王、先づ越を計り、斉を後にせよ。」と。呉王聴かず、遂に斉を伐ち、勝ちて帰る。子胥、復た之を言ふ。王、之を悪み、剣を与へて死を賜ふ。
呉王、既に子胥を殺し、遂に越を伐つ。越、呉を大破す。呉王、姑蘇に奔る。越、遂に之を囲む。呉王、請ひて勾践に臣たらんと欲す。勾践、将に之を許さんとす。范蠡曰く、「(3)天の与ふるを取らずんば、反つて其の咎めを受けん。」と。呉王、遂に自刎す。
【書き下し文】
越王(えつおう)勾践(こうせん)、呉(ご)に敗(やぶ)れ、会稽(かいけい)に棲(す)む。臣辱(はずかし)められ、妾(しょう)辱められ、身(み)は呉王の奴(ど)と為る。呉王、車の前に駆(か)せられ、勾践、馬を御(ぎょ)し、妃(きさき)、糞(ふん)を灑掃(さいそう)す。…(中略)…
勾践、国に反(かへ)り、(1)坐臥(ざが)に胆(たん)を嘗(な)め、曰く、「女(なんぢ)、会稽の恥を忘れたるか。」と。身、親(みづか)ら耕し、夫人(ふじん)、親ら織る。食に肉を加へず、衣(ころも)に彩(さい)を重ねず。賢に卑下(ひげ)し、士を尊び、死を弔(とむら)ひ、疾(やまひ)を問ひ、百姓(ひゃくせい)と其の労を同じくす。
呉王(ごおう)夫差(ふさ)、将(まさ)に斉(せい)を伐たんとす。子胥(ししょ)諌(いさ)めて曰く、「勾践、食を減じ、兵を弔ひ、此れ必ず呉に報いんとする心有り。呉に越有るは、人の心腹(しんぷく)の疾(やまひ)有るがごときなり。(2)願はくは王、先づ越を計(はか)り、斉を後にせよ。」と。呉王聴かず、遂に斉を伐ち、勝ちて帰る。子胥、復(ま)た之を言ふ。王、之を悪(にく)み、剣を与へて死を賜(たま)ふ。
呉王、既に子胥を殺し、遂に越を伐つ。越、呉を大破す。呉王、姑蘇(こそ)に奔(はし)る。越、遂に之を囲む。呉王、請ひて勾践に臣たらんと欲す。勾践、将に之を許さんとす。范蠡(はんれい)曰く、「(3)天の与ふるを取らずんば、反(かへ)つて其の咎(とが)めを受けん。」と。呉王、遂に自刎(じふん)す。
【現代語訳】
勾践は、許されて国に帰ると、(1)座る時も寝る時も(苦い)肝を嘗めて、自らに「お前は会稽山での屈辱を忘れたのか」と問いかけた。自身はみずから田を耕し、夫人はみずから機を織った。食事に肉料理を加えず、衣服に派手な色を使わなかった。賢者にはへりくだり、優れた人材を尊び、死者が出れば弔い、病人が出れば見舞い、人民と苦労を共にした。
一方、呉王夫差は、斉の国を攻めようとした。家臣の伍子胥が諌めて言った、「勾践は食事を質素にし、戦死者を丁重に弔っています。これは必ず呉に復讐しようという心があるからです。呉にとって越の存在は、人間にとっての腹中の病のようなものです。(2)どうか王よ、先に越を討伐し、斉は後回しになさってください。」と。呉王は聞き入れず、とうとう斉を攻め、勝利して帰ってきた。伍子胥が再び同じことを言った。王はこれを憎み、剣を与えて自決を命じた。
呉王は、伍子胥を殺してしまった後、ついに越を攻めた。越は呉を徹底的に打ち破った。呉王は都の姑蘇に逃げた。越はとうとうこれを包囲した。呉王は、降伏して勾践の家臣となりたいと申し出た。勾践はこれを許そうとした。しかし家臣の范蠡が言った、「(3)天が与えてくれた好機を逃すならば、かえって天罰を受けるでしょう。」と。呉王は、とうとう自ら首をはねて死んだ。
【設問】
問1 傍線部(1)「坐臥に胆を嘗め」という勾践の行動の目的として、最も適当なものを次から選べ。
- 質素な食事に慣れることで、贅沢な心を捨てるため。
- 苦い肝を嘗めることで、健康を維持し、復讐の日に備えるため。
- 自らに苦痛を与え続けることで、会稽での屈辱を片時も忘れず、復讐心を燃やし続けるため。
- 呉王への恭順の意を示し、油断させるためのパフォーマンス。
問2 傍線部(2)「願はくは王、先づ越を計り、斉を後にせよ」という伍子胥の進言の根底にある、越に対する認識はどのようなものか。最も適当なものを次から選べ。
- 越は弱小国なので、今のうちに滅ぼしておくべきだという認識。
- 越は強い復讐心を抱いており、いずれ呉にとって深刻な脅威となるだろうという認識。
- 越は呉に従順なので、斉を攻める間の留守を任せられるだろうという認識。
- 越は斉と同盟を結ぼうとしているので、その前に叩くべきだという認識。
問3 傍線部(3)「天の与ふるを取らずんば、反つて其の咎めを受けん」という范蠡の言葉の意味として、最も適当なものを次から選べ。
- 呉王を許すのは天の意思に反するので、許せば天罰が下るだろう。
- ここで呉王を許すという情けをかければ、天はかえって越に味方するだろう。
- これほどの好機は天が与えてくれたものだ。これを逃せば、逆にこちらが滅ぼされるだろう。
- 呉王を家臣にするのは天の定めた運命なので、受け入れなければ不幸が起こるだろう。
問4 この物語に由来する「臥薪嘗胆」という言葉が示す精神として、最もふさわしいものを次から選べ。
- 目的を達成するためには、手段を選ばないという冷徹な精神。
- 将来の成功のために、現在の苦労や屈辱に耐え忍ぶという不屈の精神。
- 過去の失敗を水に流し、相手を許すという寛大な精神。
- 目先の利益に惑わされず、大局を見通すという冷静な精神。
【解答・解説】
問1:正解 3
- 勾践は肝を嘗めるたびに「女、会稽の恥を忘れたるか」と自問している。このことから、この行動は、肉体的な苦痛を通じて精神的な屈辱を記憶に刻みつけ、復讐の意志を絶やさないようにするためのものであることがわかる。
問2:正解 2
- 伍子胥は、勾践の質素な暮らしぶりや戦死者を弔う様子から「此れ必ず呉に報いんとする心有り」と見抜き、越の存在を「心腹の疾(体内の重病)」にたとえている。これは、今は問題なくとも、放置すればいずれ命取りになる深刻な脅威だと認識していることを示している。
問3:正解 3
- 范蠡は、情に流されて呉王を許そうとする勾践を諌めている。「天の与ふる」とは、長年の苦労の末にようやく訪れた、呉を完全に滅ぼす絶好の機会を指す。この好機を逃せば、いずれ呉が息を吹き返し、逆に越が滅ぼされる危険がある。だから、非情になってでも好機をものにすべきだ、と進言している。
問4:正解 2
- 「臥薪嘗胆」の故事は、呉王夫差が父の復讐のために「薪の上に寝て(臥薪)」、越王勾践が屈辱を忘れないために「肝を嘗め続けた(嘗胆)」ことから来ている。 दोनोंに共通するのは、将来の目的(復讐)を達成するために、長期間にわたって苦痛や屈辱に耐え、意志を貫き通した点である。このことから、目的達成のために苦労に耐え忍ぶ不屈の精神を指す言葉となった。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 勾践(こうせん):春秋時代の越の王。
- 夫差(ふさ):春秋時代の呉の王。
- 会稽(かいけい):越の都。勾践が夫差に敗れ、屈辱的な降伏をした場所。
- 坐臥(ざが):座ることと寝ること。日常生活。
- 胆(たん):肝。胆嚢。苦いものの象徴。
- 卑下(ひげ):自分を低くして、相手を立てること。謙虚。
- 伍子胥(ごししょ):呉の有能な臣下。夫差を諌め続けたが聞き入れられず、死を賜った。
- 心腹の疾(しんぷくのやまい):体内の重病。転じて、内部に潜む重大な憂い。
- 范蠡(はんれい):越の有能な臣下。勾践を支え、復讐を成功させた。
- 自刎(じふん):自ら首をはねて死ぬこと。自害。
背景知識:臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
出典は『十八史略』など。春秋時代、呉と越の二国間の壮絶な復讐劇を語る故事。本来は、父の仇を討つために呉王夫差が「薪の上に臥し」、会稽の恥を雪ぐために越王勾践が「胆を嘗めた」という、二人の復讐への執念を示す話が合わさったもの。このことから、目的を達成するために、苦難を耐え忍び、努力を続けることのたとえとして「臥薪嘗胆」という言葉が使われる。