063(『史記』項羽本紀 より 四面楚歌)
本文
項王軍壁垓下、兵少食尽。漢軍及諸侯兵、囲之数重。夜聞漢軍皆楚歌、(1)項王乃大驚曰、「漢皆已得楚乎。是何楚人之多也。」項王則夜起、飲帳中。有美人、名虞、常幸従。有駿馬、名騅、常騎之。於是項王乃悲歌慷慨、自為詩曰、
「力抜山兮気蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
(2)虞兮虞兮奈若何」
歌数闋、美人和之。項王泣数行下。左右皆泣、莫能仰視。
【書き下し文】
項王(こうおう)の軍、垓下(がいか)に壁(へき)すれども、兵は少なく食は尽(つ)く。漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重(すうちょう)なり。夜、漢軍の皆(みな)楚歌(そか)するを聞き、(1)項王乃(すなは)ち大いに驚きて曰く、「漢、皆已(すで)に楚を得たるか。是(こ)れ何ぞ楚人の多きや。」と。項王、則ち夜起(た)ちて、帳中(ちょうちゅう)に飲す。美人有り、名は虞(ぐ)、常に幸(こう)せられて従ふ。駿馬(しゅんめ)有り、名は騅(すい)、常に之に騎(の)る。是(ここ)に於(お)いて項王、乃ち悲歌(ひか)慷慨(こうがい)し、自(みづか)ら詩を為(つく)りて曰く、
「力は山を抜き 気は世を蓋(おほ)ふ
時、利あらずして 騅、逝(ゆ)かず
騅の逝かざるを 奈何(いかん)すべき
(2)虞や虞や 若(なんぢ)を奈何せん」と。
歌ふこと数闋(すうけつ)、美人之に和(わ)す。項王、泣(なみだ)数行(すうこう)下る。左右(さゆう)皆泣き、能(よ)く仰ぎ視(み)るもの莫(な)し。
【現代語訳】
「私の力は山を引き抜くほど強く、気迫は世を覆うほどであった。
しかし時の運は私に味方せず、愛馬の騅も前に進もうとしない。
騅が進まないのを、どうすることができようか。
(2)ああ虞よ、虞よ、お前をいったいどうしてやれようか。」と。
歌い終わるのを数回繰り返すと、美人の虞もそれに合わせて歌った。項王の目からは、涙が幾筋も流れ落ちた。周りの者たちも皆泣いて、誰も顔を上げて項王の姿を見ることができなかった。
【設問】
問1 傍線部(1)「項王乃大驚曰、『漢皆已得楚乎。是何楚人之多也』」からうかがえる項王の心情として、最も適当なものを次から選べ。
- 敵である漢軍にも楚の出身者が多いことを知り、同郷のよしみで降伏勧告に来るのではないかという期待。
- 故郷の歌を聞き、兵士たちが望郷の念にかられて戦意を失うことへの焦り。
- 敵陣にいる楚の人々の多さから、自国が完全に占領され、味方が一人もいなくなったという絶望と衝撃。
- 漢軍が楚の歌を歌うのは、自分を心理的に動揺させようとする劉邦の策略であることへの怒り。
問2 傍線部(2)「虞兮虞兮奈若何」の句に込められた項王の虞美人に対する思いとして、最も適当なものを次から選べ。
- 自分の敗北が確定した今、足手まといになる虞美人をどう処分すべきかという、冷徹な問いかけ。
- 自分が死んだ後、一人残される虞美人の行く末を案じ、どうしてやることもできない無力さを嘆く思い。
- これから始まる最後の戦いに、虞美人をどのように参加させ、その安全を確保すべきかという、具体的な問いかけ。
- 自分の不運に虞美人を巻き込んでしまったことへの罪悪感と、これまでの感謝を伝える思い。
問3 項王が、詩の中で自分の愛馬「騅」について「騅不逝兮可奈何(騅の逝かざるを奈何すべき)」と歌ったのはなぜか。その解釈として最も適当なものを次から選べ。
- 長年の戦いで、名馬である騅もすっかり年老いて走れなくなってしまったから。
- 騅が自分の敗北を察して動こうとしない様子に、天運が尽きたことを悟ったから。
- 騅が自分から離れようとしないことに感動し、その忠誠心を称賛しているから。
- この包囲網の中から、いかにして騅と共に脱出するべきか、方法が見つからずに嘆いているから。
問4 この場面全体からうかがえる、英雄・項王の人物像として、最も適当でないものを一つ選べ。
- 圧倒的な身体能力と気迫に絶対的な自信を持つ人物。
- 自分の運命が尽きたことを悟り、深い悲しみと無力感に苛まれる人物。
- 最後まで愛馬や愛する女性を気遣う、人間的な情愛を持つ人物。
- 冷静に状況を分析し、最後まで逆転の機会をうかがう策略家としての人物。
【解答・解説】
問1:正解 3
- 四方を囲む漢軍から故郷である楚の歌が聞こえてきたことで、項王は「楚の国はすべて漢に降伏し、楚の人々は皆、漢軍に組み込まれてしまった」と誤解した。これにより、味方はもはやおらず、完全に孤立無援であるという事実に衝撃を受け、絶望したのである。
問2:正解 2
- 「奈若何」は「お前をどうしたらよいだろうか」という、途方にくれた問いかけである。自身の最期を悟った項王が、愛する虞美人が戦乱の中に一人取り残される未来を思い、その運命を深く憂い、しかし自分にはもう何もしてやれないという無力感と愛情を込めた嘆きの言葉である。
問3:正解 2
- 「力は山を抜き、気は世を蓋う」と豪語した項王にとって、愛馬の騅は自らの力の象徴でもあった。その騅が前に進もうとしない(ように感じられる)様子は、もはや自分の力が通用しない、天運が尽きたことの象徴として描かれている。「どうすることもできない」という嘆きは、馬に対してだけでなく、自分の運命そのものに向けられている。
問4:正解 4
- 選択肢1は詩の「力抜山兮気蓋世」から、選択肢2は「悲歌慷慨」や涙を流す様子から、選択肢3は虞や騅を思う詩の内容から、それぞれ項王の人物像として読み取れる。しかし、この場面の項王は、自らの運命が尽きたことを悟り、悲嘆に暮れている。冷静に状況を分析して逆転策を練るような「策略家」としての姿は描かれておらず、むしろ情に厚い悲劇の英雄としての側面が強調されている。したがって、4が最も適当でない。
【覚えておきたい知識】
重要句法
- ~乎 (か):文末に置き、疑問・詠嘆を表す。「漢皆已得楚乎」。
- 何~也 (なんぞ~や):詠嘆を表す。「何楚人之多也」。
- 奈何 (いかん):「どうしたらよいか」。疑問形。「奈若何」。
- 莫能~ (よく~するはなし):「~できる者はいない」。不可能を表す。
重要単語
- 項王(こうおう):項羽のこと。楚の覇王。劉邦と天下を争った。
- 垓下(がいか):楚と漢が最後の決戦を行った場所。
- 楚歌(そか):故郷である楚の国の歌。
- 帳中(ちょうちゅう):陣中の幕の内。本陣。
- 虞(ぐ):虞美人のこと。項羽が最も愛した女性。
- 騅(すい):項羽の愛馬の名。一日に千里を走るとされた名馬。
- 慷慨(こうがい):いきどおり、嘆くこと。
- 闋(けつ):詩歌の一区切りを数える助数詞。
背景知識:四面楚歌(しめんそか)
出典は『史記』項羽本紀。楚の項羽と漢の劉邦が天下を争った最後の戦い「垓下の戦い」での一場面。漢軍に完全に包囲された項羽が、敵陣から故郷である楚の歌が聞こえてくるのを聞き、味方がすべて降伏して敵に回ったと絶望した故事。このことから、周囲をすべて敵に囲まれ、味方が一人もいなくなり孤立無援である状況のたとえとして、「四面楚歌」という言葉が使われる。悲劇の英雄・項羽の最期を象徴する、非常に有名な場面である。