現代文対策問題 98
本文
我々はしばしば「時間」を、過去から未来へと一定の速度で流れていく直線的なものとして認識しています。時計が刻むカチ、カチ、という音は、この客観的で均質な時間の象徴です。近代社会は、この計量可能な「時計の時間」を基準として、工場を動かし、学校の時間割を作り、社会全体に厳密な秩序を与えてきました。
しかし、私たちが実際に生きている時間は、本当にそのような均質なものでしょうか。例えば、退屈な会議の一時間は永遠のように長く感じられる一方で、夢中になって好きなことに打ち込んでいる一時間はあっという間に過ぎ去ります。喜びや期待に満ちている時、時間は豊かに膨らみ、悲しみや絶望の淵にある時、時間は重く停滞します。このように、私たちの内面的な経験によって伸び縮みする質の異なる時間を、古代ギリシャでは「カイロス」と呼んだ。
時計が刻む客観的な時間が「クロノス」であるとすれば、「カイロス」は主観的で意味に満たされた出来事の時間です。近代社会は「クロノス」を支配することで驚異的な生産性を達成しましたが、その代償として「カイロス」の豊かさを見失ってしまったのかもしれません。効率や生産性という物差しでは測れない、人生の決定的な瞬間、あるいは何でもない日常の中にふと訪れる至福の一瞬。そうした「カイロス」をいかに経験するかが、人生の豊かさを左右します。
時間に追われ、常に「タイパ(タイムパフォーマンス)」を気にする現代人は、「クロノス」の奴隷と化しています。しかし、真の豊かさとは、限られた時間をいかに効率よく埋め尽くすかではなく、いかに多くの「カイロス」と出会うかにかかっています。時には時計を忘れ、非効率な時間の流れに身を任せること。そこに失われた時の豊潤さを取り戻す鍵があるのではないでしょうか。
【設問1】傍線部①「このように、私たちの、内面的な、経験によって、伸び縮みする、質の、異なる、時間を、古代ギリシャでは『カイロス』と、呼んだ」とあるが、この「カイロス」の説明として、最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 物理的な法則に従って誰に対しても平等に流れる客観的な時間。
- 個人の感情や意識の状態によって、その感じ方が変化する主観的な時間。
- 過去の出来事の積み重ねによって形成される歴史的な時間。
- 神によって定められた人間の力では抗うことのできない運命的な時間。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. これは筆者が「クロノス」として説明している時間です。
- 2. 筆者は「カイロス」を「内面的な経験によって伸び縮みする」と説明しています。退屈な会議と夢中な時間の例が示すように、それは客観的な長さではなく、個人の主観的な体験の質によって規定される時間です。この選択肢はその特徴を的確に捉えています。
- 3. 「歴史的な時間」という社会的な概念ではなく、あくまで個人の内面的な体験時間です。
- 4. 「運命的な時間」というニュアンスも元々の「カイロス」にはありますが、本文ではあくまで「主観的な体験」として論じられています。
【設問2】傍線部②「時間に、追われ、常に『タイパ(タイムパフォーマンス)』を、気にする、現代人」が、失いがちなものは何か。
- 限られた時間を有効に活用し多くの成果を上げる計画性。
- 時計の時間では測れない、人生における意味の豊かな瞬間。
- 社会の中で他者と歩調を合わせ協力して物事を進める協調性。
- 過去の失敗から学び将来に活かすための反省の時間。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「タイパ」を気にする現代人は、むしろこのような「計画性」を過剰に持っています。
- 2. 「タイパ」とは時間を効率よく使うことを最優先する考え方であり、「クロノス」の論理に支配された態度です。筆者はこのような態度が「カイロス」の豊かさを見失わせると主張しています。「カイロス」とは「効率や生産性という物差しでは測れない」「意味に満たされた」時間です。この選択肢は現代人が失いがちなものを的確に指摘しています。
- 3. 「協調性」については本文では論じられていません。
- 4. 「反省の時間」も重要ですが、筆者が対比的に強調しているのは、より広い「カイロス」という概念です。
【設問3】本文の趣旨を踏まえると、筆者が真に「豊かな人生」のために必要だと考えていることは何か。
- 無駄な時間を徹底的に省き、自己実現のために全ての時間を投資すること。
- 客観的な時間の流れを忘れ、自分の主観的な感覚だけを信じて生きること。
- 効率を重視する「クロノス」の価値観から距離を置き、「カイロス」という意味に満ちた時間を大切にすること。
- 過去を振り返ったり未来を憂いたりせず、ただひたすら「今、この瞬間」だけを楽しむこと。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. これは筆者が批判する「クロノスの奴隷」の生き方です。
- 2. 「クロノス」を完全に否定するのではなく、その支配から距離を置くことを提案しています。
- 3. 筆者は、近代社会が「クロノス」を重視するあまり、「カイロス」の豊かさを見失ったと指摘し、「真の豊かさとは…いかに多くの『カイロス』と出会うかにかかっている」と結論づけています。この選択肢は筆者の主張の核心を最もバランス良くまとめています。
- 4. 「今、この瞬間」を楽しむことは「カイロス」と近いですが、筆者はそれを可能にするための条件として「時計を忘れ、非効率な時間の流れに身を任せること」を挙げており、より広い時間との向き合い方を論じています。
語句説明:
均質(きんしつ):性質や状態がどれも同じでむらがないこと。
計量(けいりょう):長さ、重さ、量などをはかること。
カイロス(Kairos):ギリシャ語で「時」を意味する言葉の一つ。時計で測れるような客観的な時間(クロノス)に対し、決断の時機や好機といった主観的で質的な時間を指す。
豊潤(ほうじゅん):豊かでうるおいがあること。