現代文対策問題 94
本文
私たちは、自分の「身体」を精神の乗り物か、あるいは意のままになる道具のように考えがちです。しかし、哲学者メルロ=ポンティは、このような心身二元論的な見方を退け、人間存在の根源に「身体」を据え直しました。彼によれば、私たちは「身体を持つ」のではなく、まさに「身体としてある」のです。世界を認識する主体は、純粋な精神ではなく、常にこの生身の身体なのです。
このことは、例えば空間の認識を考えてみれば明らかでしょう。私たちが感じる空間は、数学的な座標で示されるような均質で客観的なものではありません。そこには、常に「ここ」という身体的な中心があり、そこからの距離や方向によって意味づけられています。「向こう側」の山も、「手前」の川も、身体というゼロ地点を基準にして初めて現れます。私たちは身体を通して世界に根を下ろし、世界と関わっているのです。
さらに、この身体は単なる肉体ではありません。それは、習慣や記憶を通じて世界との関わり方を学習し、いわば「知性」を宿します。自転車に乗れるようになるプロセスは、その好例です。最初は意識的にペダルを漕ぎ、ハンドルを操作しようとしますが、上達するにつれて、それらの動きは無意識化されます。もはや「身体が知っている」という状態であり、意識はむしろ邪魔にさえなります。この「身体知」は、言葉や論理では説明し尽くせない実践的な知恵です。
身体を意識の下位に置く近代的な思考は、私たちを頭でっかちにし、世界との生きたつながりを失わせてしまった。自らの身体感覚に耳を澄まし、その声を信頼すること。その当たり前のようでいて忘れられがちな営みの中に、私たちは失われた世界の豊かさを取り戻すための重要な手がかりを見出すことができるかもしれません。
【設問1】傍線部①「世界を認識する主体は、純粋な精神ではなく、常にこの生身の身体なのです」とあるが、これはどういうことか。
- 人間の精神活動は、全て脳の物理的な働きに還元できるということ。
- 世界は客観的に存在するのではなく、個人の主観的な意識が作り出した幻想であるということ。
- 私たちが世界を感じ、考える基盤には、常に身体的な存在としての経験があるということ。
- 精神的な能力よりも身体的な能力の方が、人間にとって本質的で重要であるということ。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 「脳の物理的な働きに還元できる」という唯物論的な主張とは、少しニュアンスが異なります。
- 2. 「意識が作り出した幻想」という観念論ではなく、身体と世界の具体的な関わりを問題にしています。
- 3. 筆者はメルロ=ポンティの思想を引きながら、人間は「身体としてある」と述べています。これは、物事を認識する際の土台が抽象的な「精神」ではなく、具体的な身体経験であるということを意味します。続く空間認識の例も、身体が認識の中心(ゼロ地点)であることを示しています。この選択肢は、その趣旨を的確に捉えています。
- 4. 「精神よりも身体が重要」という単純な優劣の話ではなく、両者の関係性、特に認識における身体の基礎的な役割を論じています。
【設問2】傍線部②「身体を意識の下位に置く近代的な思考は、私たちを頭でっかちにし、世界との生きたつながりを失わせてしまった」とあるが、ここでいう「世界との生きたつながり」とは、どのようなものか。
- 自然の中で体を動かし、汗を流すことで得られる健康的な生活。
- 論理やデータだけでなく、身体的な感覚や直観を通じて、世界を直接的に感じ取ること。
- 家族や地域社会の一員として他者と触れ合い、情緒的な絆を育むこと。
- 書物などを通じて過去の人々の知恵を学び、時空を超えた連帯感を感じること。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「健康的な生活」も結果の一つかもしれませんが、ここで論じられているのは、より根源的な世界の認識のあり方です。
- 2. 「身体を意識の下位に置く近代的な思考」とは、論理や理性といった意識の働きを重視し、身体感覚を軽視する態度です。それが私たちを「頭でっかち」にしたと筆者は述べています。その結果失われた「生きたつながり」とは、その対極にある、身体の感覚を通じて世界を直接的に体験し理解することに他なりません。「身体知」の例もこのことを裏付けています。
- 3. 「情緒的な絆」も重要ですが、本文の文脈は認識論的な世界との関わりが中心です。
- 4. 「書物を通じて」得られる知識は、むしろ筆者が批判する「頭でっかちな」あり方に繋がりやすいものです。
【設問3】本文で述べられている「身体知」の特徴の説明として、最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 言葉や論理によって明確に説明することが可能な、客観的な知識。
- 生まれつき人間に備わっている、本能的な行動パターン。
- 反復的な実践を通じて身体に染み付いた、無意識的で実践的な知恵。
- 最新のスポーツ科学によって解明された、効率的な身体の動かし方。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 筆者は、「言葉や論理では説明し尽くせない」と述べているので、不適当です。
- 2. 「生まれつき」ではなく、「自転車に乗れるようになるプロセス」のように、後天的に「学習」されるものです。
- 3. 第三段落で筆者は「身体知」を「習慣や記憶を通じて」「学習」され、「上達するにつれて無意識化される」ものとして説明しています。「自転車」の例が示すように、それは繰り返し(反復的)の練習(実践)によって獲得されるものです。この選択肢は、その特徴を的確にまとめています。
- 4. 「スポーツ科学」のような客観的な分析ではなく、個人の身体に根ざした主観的な知恵です。
語句説明:
心身二元論(しんしんにげんろん):人間の精神(心)と身体(物体)を全く別の独立した実体であるとする哲学的な考え方。
均質(きんしつ):性質や状態がどれも同じでむらがないこと。
好例(こうれい):ちょうどよい手本となる例。
頭でっかち(あたまでっかち):知識ばかりが先行して、行動や実践が伴わないこと。