現代文対策問題 92

本文

我々は他者との円滑な関係を望むあまり、つい「わかりあえる」という幻想にしがみつきがちです。自分の気持ちは相手に伝わるはずだと。あるいは、誠意をもって話し合えば、いつかは完全な相互理解に到達できるはずだと。この期待は美しいものですが、同時に私たちを苦しめる原因ともなります。

そもそも人間は一人ひとり全く異なる身体と経験を持って生きている孤立した存在です。同じリンゴを見ても、私が感じている「赤」と、あなたが感じている「赤」が同じであるという保証はどこにもありません。私たちは言葉という不完全な橋を通じて、かろうじて互いの内面世界を推し量っているに過ぎません。「わかりあえない」という根本的な断絶の事実こそが、人間的コミュニケーションの出発点なのである

この絶望的とも思える事実を引き受けること。それは他者を理解しようとする努力を放棄することには繋がりません。むしろその逆です。「どうせわかりあえないのだから」と開き直るのではなく、「わかりあえないにもかかわらず」他者へ向かって手を伸ばそうとする切実な意志がそこから生まれます。相手を自分の理解の枠組みに無理やり押し込めるのではなく、相手の持つ未知の世界そのものに敬意を払うという態度が可能になるのです。

安易な共感を前提としたコミュニケーションは、しばしば表面的な同調圧力に陥り、異質な他者を排除する。しかし、「わかりあえない」ことから出発するコミュニケーションは、差異を差異として認め合い、それでもなお共にいるための知恵と作法を育むでしょう。真の信頼関係とは、全てがわかるという幻想の上にではなく、わからなさの深淵を共に見つめる覚悟の上に築かれるのではないでしょうか。


【設問1】傍線部①「『わかりあえない』という根本的な断絶の事実こそが、人間的コミュニケーションの出発点なのである」とあるが、これはどういうことか。

  1. 人間は本質的に利己的な存在であるため、真のコミュニケーションは成立しないということ。
  2. 人はそれぞれ異なる主観的な世界を生きており、完全な相互理解は原理的に不可能であるという認識のこと。
  3. 言葉という手段には限界があるため、非言語的な方法でコミュニケーションを補う必要があるということ。
  4. 意見の対立は避けられないものであるため、議論を通じて相手を論破する技術が重要であるということ。
【正解と解説】

正解 → 2

  • 1. 「利己的」という道徳的な判断ではなく、存在の根本的なあり方(孤立)を問題にしています。
  • 2. 筆者は第二段落で、「一人ひとり全く異なる身体と経験を持って生きている孤立した存在」であり、同じものを見ても、同じようには感じていない、という例を挙げています。これは、人と人との間には越えがたい断絶があるという事実認識を示しています。この、完全には「わかりあえない」という前提から出発することこそ、真のコミュニケーションの始まりだと筆者は考えています。
  • 3. 「非言語的な方法」の重要性については本文では触れられていません。
  • 4. 「相手を論破する」という態度は筆者の主張とは正反対です。

【設問2】傍線部②「安易な共感を前提としたコミュニケーションは、しばしば表面的な同調圧力に陥り、異質な他者を排除する」とあるが、筆者がそのように考えるのはなぜか。

  1. 「わかりあえるはずだ」という思い込みは、自分と違う意見を持つ相手を間違っていると見なし、矯正しようとする態度に繋がりやすいから。
  2. 共感を得ようとするあまり、自分の本心を偽り、相手に迎合するような不誠実なコミュニケーションが増えるから。
  3. 感情的な共感は長続きせず、一時的な盛り上がりの後には、かえって深い断絶感が残ることが多いから。
  4. 共感できる仲間内だけで集まるようになり、社会全体の分断を助長してしまう危険性があるから。
【正解と解説】

正解 → 1

  • 1. 「わかりあえる」ことを前提にすると、自分と同じでない他者のあり方を理解できず、それを「間違い」や「逸脱」と見なす傾向が生まれます。そして、その「間違い」を正し、自分たちと同じようにさせようとする力が働きます。これが「同調圧力」であり、それに従わない他者を「排除」することに繋がります。この選択肢は、安易な共感の前提が持つ暴力性を的確に指摘しています。
  • 2. 「不誠実さ」も問題ですが、筆者がより強く批判しているのは他者への「排除」の論理です。
  • 3. 「長続きしない」という時間的な問題は論じられていません。
  • 4. 「社会の分断」というマクロな視点も含まれるかもしれませんが、より直接的には目の前のコミュニケーションにおける排除の作用を問題にしています。

【設問3】筆者の考えによれば、「わかりあえない」という事実を引き受けることで可能になるコミュニケーションとは、どのようなものか。

  1. 互いに干渉することをやめ、それぞれの孤独を尊重し合う静かな関係。
  2. 相手を自分の理解の枠に当てはめず、相手の未知性を尊重する謙虚な関係。
  3. 言葉での理解を諦め、感情的な一体感を最優先する情緒的な関係。
  4. 共通の目的を達成するために、互いの意見の違いを棚上げする実利的な関係。
【正解と解説】

正解 → 2

  • 1. 「干渉しない」という消極的な態度ではなく、筆者は「手を伸ばそうとする切実な意志」と積極的な関わりを説いています。
  • 2. 第三段落で、筆者は「わかりあえない」という事実を引き受けることで、「相手を自分の理解の枠組みに無理やり押し込めるのではなく、相手の持つ未知の世界そのものに敬意を払うという態度」が可能になると述べています。この選択肢は、その内容を最も的確に言い換えています。
  • 3. 「感情的な一体感」は、筆者がむしろ警戒する「安易な共感」につながりかねません。
  • 4. 「違いを棚上げする」という態度は問題の先延ばしであり、「差異を差異として認め合う」という筆者の主張とは異なります。

語句説明:
しがみつく:離れまいとして必死につかまること。ある考えなどに固執すること。
断絶(だんぜつ):繋がりがすっかり途切れてしまうこと。
深淵(しんえん):のぞきこめないほど深い淵。転じて、計り知れない深い境地や状態。
作法(さほう):物事を行うときの決まったやり方。礼儀にかなった立ち居振る舞い。

レベル:大学入学共通テスト対策|問題番号:92