現代文対策問題 90
本文
近年、「エビデンス」という言葉が頻繁に使われるようになりました。医療や政策決定の分野はもとより、ビジネスや教育の現場においても、「エビデンスに基づいた」という枕詞が、絶対的な正しさの証明であるかのように機能しています。科学的なデータや統計的な客観性によって裏付けられた判断こそが信頼に値するという考え方です。
このエビデンスを重視する態度は、非合理的な精神論や個人の主観的な経験則への偏りを是正し、物事をより客観的で公平な方向に導く上で大きな役割を果たしてきました。しかしその一方で、私たちはこの「エビデンス至上主義」の持つ危険性にも目を向けるべきでしょう。なぜなら、数値化できるもの、客観的に測定できるものだけを世界の全てだと見なす態度は、そこからこぼれ落ちる無数の大切な価値を切り捨ててしまうからです。
例えば、一人の教師の経験的な「勘」や、長年その土地に住む長老の「知恵」はどうでしょうか。それらは厳密なエビデンスとして提示することは難しいかもしれません。しかし、その中には統計データだけでは決して捉えることのできない、文脈的で総合的な洞察が含まれていることがあります。数値化できないという理由だけで、これらの知を切り捨てることは、私たちの世界をひどく貧しく、痩せ細らせてしまうのです。
真に賢明な判断とは、エビデンスという客観的な光と、経験知という主観的な光の両方を必要とするのではないでしょうか。一方の光だけに頼る時、私たちは世界の半分しか見ることができません。客観的なデータを尊重しつつも、その限界をわきまえ、数値化できない価値の領域にも敬意を払う。その複眼的な思考こそ、複雑な現実を生きる私たちに求められる知性なのです。
【設問1】傍線部①「なぜなら、数値化できるもの、客観的に測定できるものだけを世界の全てだと見なす態度は、そこからこぼれ落ちる無数の大切な価値を切り捨ててしまうからだ」とあるが、ここでいう「こぼれ落ちる無数の大切な価値」の例として、本文中で挙げられているものは次のうちどれか。
- 個人の創造性や芸術的な感性。
- 歴史や文化を通じて受け継がれてきた伝統的な価値観。
- 教師の経験的な「勘」や地域の長老が持つ「知恵」。
- 友情や愛情といった人間関係における情緒的な絆。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 「創造性」や「芸術的感性」も数値化しにくい価値ですが、本文中で具体的に例として挙げられているわけではありません。
- 2. 「伝統的価値観」も同様に、本文中で直接例として挙げられてはいません。
- 3. 第三段落で筆者は、「エビデンスとして提示することは難しいかもしれない」ものの価値ある知の例として、「一人の教師の経験的な『勘』や、長年その土地に住む長老の『知恵』」を明確に挙げています。これらは、まさにエビデンス至上主義の中で「こぼれ落ちる」価値の具体例です。
- 4. 「友情や愛情」も数値化できない大切な価値ですが、本文中で例として挙げられてはいません。
【設問2】傍線部②「真に賢明な判断とは、エビデンスという客観的な光と、経験知という主観的な光の両方を必要とする」とあるが、これはどのような考え方を示しているか。
- 客観的なデータと個人の直感を対立させ、どちらが優れているかを常に見極めるべきだという考え方。
- 科学的な根拠と非科学的な知恵を区別せず、同等に扱って判断すべきだという考え方。
- 客観的な証拠を基礎としながらも、数値化できない文脈的な知見をも尊重し、総合的に判断すべきだという考え方。
- 最終的な判断は個人の主観的な信念に基づいて行い、客観的なデータはそれを補強するために利用すべきだという考え方。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 「対立」させるのではなく、「両方を必要とする」とあるので統合的な視点を求めています。
- 2. 「区別せず同等に扱う」のではなく、最終段落で「客観的なデータを尊重しつつも、その限界をわきまえ」とあるように、それぞれの性質の違いと役割を認識した上で統合することを目指しています。
- 3. 「エビデンスという客観的な光」と「経験知という主観的な光」の「両方を必要とする」という筆者の主張は、客観的なデータ(エビデンス)の重要性を認め、それを基礎としながらも、それだけでは捉えきれない文脈的な知恵(経験知)も併せて考慮に入れる、というバランスの取れた態度を示しています。この選択肢は、その「複眼的な思考」を的確に言い換えています。
- 4. 主観的な信念が先に来るのではなく、「客観的なデータを尊重しつつ」とあるので客観性を軽視する意図はありません。
【設問3】筆者が「エビデンス至上主義」を批判する根本的な理由として最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- エビデンスの収集や分析には莫大なコストと時間がかかり、非効率的だから。
- エビデンスは専門家によって意図的に操作される危険性があり、必ずしも信頼できるとは限らないから。
- 数値やデータで測れる事柄のみを重視することで、人間社会の持つ豊かで複雑な側面が見失われてしまうから。
- エビデンスに頼りすぎると、人々の自ら考える力が衰え、主体性が失われてしまうから。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 「非効率性」は本文の論点ではありません。
- 2. 「意図的な操作」の危険性については、本文では触れられていません。
- 3. 筆者は、「数値化できるもの、客観的に測定できるものだけを世界の全てだと見なす態度」が、「そこからこぼれ落ちる無数の大切な価値を切り捨ててしまう」こと、そしてそれが「私たちの世界をひどく貧しく、痩せ細らせてしまう」ことを一貫して問題にしています。これは、エビデンス至上主義が人間や社会の豊かさ、複雑さを捉えきれないという根本的な限界を指摘するものです。
- 4. 「考える力の衰え」も結果として起こるかもしれませんが、筆者がより直接的に批判しているのは視野が狭くなることです。
語句説明:
エビデンス:証拠。根拠。特に、科学的な調査に基づく客観的な証拠。
是正(ぜせい):悪い点や不都合な点を正しく改めること。
至上主義(しじょうしゅぎ):ある特定のものを最高のものとして絶対的な価値を置く考え方。
複眼的(ふくがんてき):昆虫の複眼のように物事を多様な角度から見ること。