現代文対策問題 89
本文
私たちは自分の記憶を、過去の出来事を正確に記録したビデオテープのようなものだと考えがちです。思い出すという行為は、そのテープを巻き戻し、再生する作業だと。しかし近年の脳科学や心理学の研究は、このような素朴な記憶観を根底から覆しつつあります。記憶とは決して固定的な記録ではなく、むしろ「思い出す」たびに常に再創造される、きわめて動的なプロセスなのです。
私たちが何かを思い出す時、脳は過去の情報の断片をパズルのように組み合わせ、現在の文脈や自己像に合わせて一つの首尾一貫した「物語」として再構築します。その過程では、都合の悪いディテールが省略されたり、後から得た情報によって内容が書き換えられたりすることも珍しくありません。つまり、記憶とは過去の客観的な事実そのものではなく、現在の自分にとって意味のある形に編集された主観的なナラティブ(物語)なのです。
この記憶の創造的な性質は、単なる欠陥ではありません。むしろ、それは私たちが過去の経験から学び、変化し続ける自己の連続性を保つための重要な精神機能です。もし全ての過去が生々しい客観的な事実として固定され、一切の編集を許さないとしたら、私たちは過去の失敗やトラウマに永遠に縛り付けられ、未来へ向かって歩み出すことができなくなるでしょう。
自らの記憶が絶対的な真実ではないと知ることは、私たちを謙虚にします。それは他者の記憶もまた、その人自身の主観的な物語であることを理解させ、安易な記憶違いの非難や歴史認識をめぐる不毛な対立から私たちを解放してくれる可能性を秘めています。記憶とは、その不確かさ、編集可能性のうちにこそ、人間の精神のしなやかさと豊かさを宿しているのです。
【設問1】傍線部①「つまり、記憶とは過去の客観的な事実そのものではなく、現在の自分にとって意味のある形に編集された主観的なナラティブ(物語)なのです」とあるが、これは記憶のどのような性質を説明しているか。
- 記憶は時間と共に劣化し、不正確になっていく信頼性の低い情報であるという性質。
- 記憶は思い出すその時々の自分の状況や解釈に応じて常に再構成され、意味づけられるという性質。
- 記憶は感情と強く結びついており、客観的な事実よりも主観的な印象が強く残るという性質。
- 記憶は他者と語り合うことを通じて補強され、社会的な共通認識として形成されていくという性質。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「劣化」や「信頼性の低さ」といったネガティブな側面だけでなく、筆者はその創造的な働きを積極的に評価しています。
- 2. 筆者は記憶を「『思い出す』たびに常に再創造される」プロセスであり、脳が「現在の文脈や自己像に合わせて」「再構築する」ものだと説明しています。これは記憶が固定的なデータではなく、現在の視点からその都度作り直される動的なものであることを意味しており、この選択肢はその性質を最も的確に捉えています。
- 3. 「感情との結びつき」も記憶の重要な側面ですが、筆者がここで強調しているのは、「現在の自分」による「編集」というより広い再構成の働きです。
- 4. 「他者との語り」も記憶に影響を与えますが、本文で中心的に論じられているのは、個人の内面で行われる再創造のプロセスです。
【設問2】傍線部②「自らの記憶が絶対的な真実ではないと知ること」が私たちにもたらす効果として、本文で述べられていないものは次のうちどれか。
- 過去の辛い出来事に固執せず、未来へ向かって進む助けとなる。
- 他者の記憶もまた主観的なものであると理解し、寛容になる。
- 自分の記憶力を過信せず、客観的な記録を重視するようになる。
- 歴史認識などをめぐる不毛な対立を避けるきっかけとなる。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 第三段落で「私たちは過去の失敗やトラウマに永遠に縛り付けられ、未来へ向かって歩み出すことができなくなるだろう」という仮定の逆として述べられています。
- 2. 最終段落で「他者の記憶もまた、その人自身の主観的な物語であることを理解させ」と述べられています。
- 3. 「客観的な記録を重視するようになる」という具体的な行動の変化については、本文では述べられていません。筆者の議論は、あくまで認識論的なレベルに留まっています。
- 4. 最終段落で「歴史認識をめぐる不毛な対立から私たちを解放してくれる可能性」と述べられています。
【設問3】筆者の考えによれば、記憶が「編集可能」であることは、人間にとってどのような積極的な意味を持つか。
- 自分に都合のいいように過去を書き換えることで精神的な安定を保つことができる。
- 過去の経験を現在の自分に合わせて意味づけ直し、自己の連続性を保ちながら成長していくことができる。
- 過去の膨大な情報の中から必要なものだけを効率的に引き出すことができる。
- 他者と記憶を共有し、修正し合うことで、より正確で客観的な歴史を構築することができる。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「都合のいいように書き換える」という自己欺瞞的な側面を肯定しているわけではありません。
- 2. 第三段落で、筆者は記憶の創造的な性質を「私たちが過去の経験から学び、変化し続ける自己の連続性を保つための重要な精神機能」と位置づけています。これは過去を固定的なものとせず、現在の成長に合わせてその意味を更新していくことで、変化しながらも一貫した「自分」であり続けられるという積極的な意味合いを的確に表しています。
- 3. 「効率性」の問題ではなく、自己のあり方の問題として論じられています。
- 4. 「より正確で客観的な歴史」を構築するという方向性ではなく、むしろ記憶の主観性を認識することの重要性を説いています。
語句説明:
首尾一貫(しゅびいっかん):始めと終わりで矛盾がないこと。筋が通っていること。
ナラティブ:物語。語り。出来事を特定の視点から意味づけ、解釈して語られるもの。
トラウマ:精神的な外傷。過去の衝撃的な体験が原因で心に生じる障害。
不毛な(ふもうな):何の進歩も成果も得られないさま。