現代文対策問題 88

本文

私たちは自分のアイデンティティ、すなわち「自分とは何者か」という問いの答えを、どこに求めているのでしょうか。近代社会は、個人をあらゆる共同体的なしがらみから解放し、自由な自己決定の主体として位置づけました。そのため、私たちは自分のアイデンティティを、自らの内面から汲み上げるべきだと考えがちです。自分の内なる声に耳を澄ませば、そこに揺るぎない本来の自己が見つかると。

しかし、人間の自己は本当にそのような孤立した内面世界に存在するのでしょうか。むしろ、私たちの自己は他者との具体的な関係性の中で、他者からの眼差しを通して初めて形を結ぶのではないでしょうか。他者から「あなたは、こういう人だ」と呼びかけられ、それに応答するという対話的なプロセスを抜きにして、自己は成立しないのです。鏡がなければ自分の顔を見ることができないように、他者という鏡なしには、自分の姿を認識することはできません。

このことは、私たちが何かに「所属する」ことの重要性を示唆しています。家族、友人、会社、あるいは趣味のサークル。そうした具体的な共同体の中で特定の「役割」を担い、他者から必要とされ、承認される経験を通じて、私たちのアイデンティティは輪郭を与えられ、安定します。内面ばかりを掘り下げても、そこには確かな手応えのない、漠然とした自己しか見出せないかもしれません。

もちろん、他者の評価や期待に全面的に依存する生き方は危険です。それは自分を見失うことにつながりかねません。しかし、だからといって他者を完全に切り離し、純粋な自己を追求しようとするのも、また一つの幻想に過ぎません。自己とは、内面と外面、一人であることと共にあること、その絶え間ない往復運動の中で動的に生成されるものなのではないでしょうか。


【設問1】傍線部①「他者から『あなたは、こういう人だ』と呼びかけられ、それに応答するという対話的なプロセスを抜きにして、自己は成立しない」とあるが、これは自己の成立についてどのような考え方を示しているか。

  1. 自己とは生まれながらに持っている不変の本質のことであるという考え方。
  2. 自己とは他者からの評価を気にせず、自らの信念を貫くことで確立されるという考え方。
  3. 自己とは他者との相互的な関係性の中で作られていく社会的な産物であるという考え方。
  4. 自己とはさまざまな社会的役割を演じることで後天的に獲得されるペルソナの集合体であるという考え方。
【正解と解説】

正解 → 3

  • 1. 「不変の本質」ではなく、他者との「プロセス」の中で成立すると述べているため、不適切です。
  • 2. 「他者からの評価を気にせず」ではなく、むしろ他者からの「呼びかけ」が出発点です。
  • 3. 筆者は「他者との具体的な関係性の中」「他者からの眼差しを通じて」自己が形作られると主張しています。「呼びかけ」と「応答」という「対話的なプロセス」は、まさに他者との相互的な関係性を示しており、そこで作られる自己を「社会的な産物」と捉えるこの選択肢が、筆者の考え方を的確に表しています。
  • 4. 「ペルソナの集合体」も近い考えですが、「対話的なプロセス」という相互作用の側面をより強調しているのが本文の特徴です。

【設問2】傍線部②「もちろん、他者の評価や期待に全面的に依存する生き方は危険です」と筆者が断っているのはなぜか。

  1. 他者からの期待に応え続けようとすると、精神的に疲れてしまうから。
  2. 他者との関係性を重視する自らの主張が、主体性のない付和雷同を勧めるものだと誤解されることを避けるため。
  3. 他者の評価は気まぐれで変わりやすいため、それを基準にすると安定した自己を築けないから。
  4. 他者の評価ばかり気にしていると、自分と他人を比較して、嫉妬や劣等感に苛まれるようになるから。
【正解と解説】

正解 → 2

  • 1. 「精神的な疲弊」も一因ですが、筆者がより懸念しているのは自己のあり方の問題です。
  • 2. 筆者は、それまでの文脈で「他者」や「所属」の重要性を強調してきました。しかし、それはただ他人に合わせればいいということではありません。その点を明確にしておかないと、筆者の主張が「自分を見失う」ような他者依存の生き方を肯定するものだと誤読されかねません。そこで最後に、自己が「内面と外面の往復運動」の中にある、というバランスの取れた見方を提示するために、この断り書きを入れたと考えられます。
  • 3. 「他者の評価の気まぐれさ」も理由の一つですが、より大きな文脈は、筆者の論理展開上のバランスを取るためです。
  • 4. 「嫉妬や劣等感」という具体的な感情までは言及していません。

【設問3】筆者の考えによれば、人間の「自己」はどのように形成されるか。その説明として最も適当なものを次の中から一つ選べ。

  1. 自分の内面を深く見つめる孤独な作業を通じて、本来の自己を発見することによって。
  2. さまざまな共同体に所属し、そこで与えられた役割を忠実に果たすことによって。
  3. 他者との関わりと内面的な探求との間のバランスの取れた相互作用を通じて、動的に作られていくことによって。
  4. 多くの知識や教養を身につけ、客観的な視点から自分自身を分析することによって。
【正解と解説】

正解 → 3

  • 1. 筆者は、このような「内面」偏重の考え方を「幻想」として批判しています。
  • 2. 筆者は「所属」の重要性を認めつつも、それに「全面的に依存する生き方は危険」だとしており、これだけでは不十分です。
  • 3. 最終段落で筆者は、自己を「内面と外面、一人であることと共にあること、その絶え間ない往復運動の中に、動的に生成されるもの」と結論づけています。これは内面的なあり方(一人であること)と、社会的な関係性(共にあること)の両方のバランスの取れた関わりの中で、自己が常に作られ続けるという考え方であり、この選択肢はその核心を的確に捉えています。
  • 4. 「客観的な分析」という知的な側面よりも、他者との実存的な関係性を重視しています。

語句説明:
しがらみ:断ち切ることのできない人間関係や義理。束縛。
汲み上げる(くみあげる):容器などで水などを下から上へ移すこと。転じて、人の意向などを取り上げること。
示唆(しさ):それとなく物事を教え示すこと。
動的に(どうてきに):静止・固定しないで動いているさま。いきいきと変化していくさま。

レベル:大学入学共通テスト対策|問題番号:88