現代文対策問題 55

本文

アパートの隣の部屋には、外国人の女性が一人で住んでいた。顔を合わせれば会釈する程度の仲で、名前も知らない。ただ、時々、壁の向こうから彼女が弾くチェロの音が低く響いてくることがあった。その音色は決して上手いとは言えなかった。同じフレーズを何度も繰り返し、途中でつっかえてはまた最初からやり直す。そのたどたどしい練習の音を、僕は別に不快だとは思わなかった。むしろ、その不器用な響きが、この静かすぎるアパートの空気によく馴染んでいるようにさえ感じていた。

ある晩、僕は仕事で大きなミスをして、ひどく落ち込んで帰ってきた。夕食も喉を通らず、ベッドに倒れ込む。自分の不甲斐なさに腹が立ってどうしようもなかった。その時、いつものように壁の向こうからチェロの音が聞こえてきた。相変わらず同じ箇所で間違えては、ため息のような間を置いて、また弾き始める。

普段ならただの背景音として聞き流していたはずのその音が、その夜はなぜかひどく胸にしみた。ああ、隣の彼女も、こうしてうまくいかない夜を一人で乗り越えようとしているのかもしれない。そう思うと、不思議と心が少し軽くなった。僕だけがこの世界で一人でもがいているわけじゃない。そう思えたからだ。

僕はベッドから起き上がると、壁に向かってこんこんと指で二回、軽くノックした。それは苦情のつもりではなかった。頑張れ、と。僕もここにいる、と。そんな言葉にならない合図のつもりだった。チェロの音はぴたりと止んだ。そして数秒後、壁の向こうから同じようにこんこんと小さな音が返ってきた。


【設問1】傍線部「ああ、隣の彼女も、こうしてうまくいかない夜を一人で乗り越えようとしているのかもしれない」とあるが、この時の「僕」の心境として最も適当なものを次の中から一つ選べ。

  1. 隣人の騒音に悩まされながらも、自分の境遇と重ね合わせ、同情している。
  2. 隣人のチェロの腕前が上達しない理由を推測し、気の毒に思っている。
  3. 自分の失敗と隣人の不器用な練習の姿を重ね合わせ、一種の連帯感を感じている。
  4. 隣人の孤独な境遇に気づき、友人として力になってあげたいと考えている。
【正解と解説】

正解 → 3

  • 1. 僕はチェロの音を「不快だとは思わなかった」とあり、「騒音に悩まされている」わけではありません。
  • 2. 彼女の腕前を評価しているのではなく、うまくいかない状況そのものに気持ちを寄せています。
  • 3. 仕事でミスをして落ち込んでいる「僕」にとって、隣人の「うまくいかない」練習の音は、自分と同じように壁の向こう側で誰かも奮闘しているのだという気づきをもたらします。直接の交流はなくても、同じアパートで、それぞれの「うまくいかない夜」を過ごしている存在がいる。そのことに彼は孤独感を和らげられ、自分だけではないというささやかな連帯感を感じています。
  • 4. 「友人として」という具体的な関係性まではまだ考えていません。もっと漠然とした心のつながりです。

【設問2】僕が壁をノックした行為の意味として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。

  1. 練習の音がうるさいという遠回しな抗議。
  2. 彼女のチェロの音色に感動したという賞賛の気持ち。
  3. 言葉にはできない励ましや共感の気持ちを伝えようとする合図。
  4. これをきっかけに隣人との本格的な交流を始めようとする提案。
【正解と解説】

正解 → 3

  • 1. 「苦情のつもりではなかった」と本文に明記されています。
  • 2. 「感動した」というよりは、「胸にしみた」とあり、共感のニュアンスが強いです。
  • 3. 彼は自分の感じた連帯感を隣人に伝えたかったのです。しかし、直接言葉をかけるのはためらわれる。そこで「頑張れ」「僕もここにいる」という言葉にならない思いを、壁を叩くというささやかな行為に託しました。これはお互いの領域を侵さない慎み深いコミュニケーションの試みです。
  • 4. 「本格的な交流」までを意図した大げさなものではなく、その場限りの一回性の合図と考える方が自然です。

レベル:大学入学共通テスト対策|問題番号:55