現代文対策問題 95
本文
その日、私は祖父の書斎の整理をしていた。一月に亡くなった祖父は郷土史の研究家だった。本棚には、黄ばんだ古文書や手書きのメモがびっしりと詰まったファイルが、息苦しいほどに並んでいる。父は「価値のあるものだけ残して、あとは処分しろ」と言ったが、私にはどれが価値のあるものなのか見当もつかなかった。
作業に疲れて窓を開けると、金木犀の甘い香りがふわりと部屋に入ってきた。庭の隅に、祖父が大切にしていた大きな金木犀の木がある。私が子供の頃、祖父はこの木の下でよく町の古い伝説や昔話をしてくれた。
ふと、机の上に一冊の使い古されたノートが開かれたままになっているのに気づいた。最後のページだった。そこには、震えるような万年筆の文字でこう書かれていた。
「金木犀の香。今年もまた、あの日のことを思ふ」
日付は祖父が亡くなる一週間前だった。あの日のこと、とはどの日だろう。祖父のおびただしい研究資料の中にその答えはない。それは誰にも明かされることのなかった、祖父だけの個人的な記憶。町の歴史ではなく、祖父一人の歴史の一ページ。
私はノートをそっと閉じた。そして、父には内緒でそのノートを自分のカバンにしまった。私にはこのノートが、書斎にあるどの古文書よりも価値のあるもののように思えた。
【設問1】傍線部「金木犀の香。今年も、また、あの日のことを、思ふ」という祖父の記述から、どのようなことがうかがえるか。最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 金木犀の香りが、毎年決まって思い出す何か特別な個人的な記憶の引き金になっていたこと。
- 金木犀の生態について、長年研究を続けていたことの記録。
- 金木犀の香りが、自らの死期を悟らせる何らかの予兆であったこと。
- 町の歴史の中で、金木犀にまつわる重要な出来事があったことを示唆している。
【正解と解説】
正解 → 1
- 1. 「今年も、また」という表現は、この追想が毎年繰り返される習慣的なものであったことを示しています。そして「あの日のこと」という特定の一日を指す言葉は、それが郷土史のような公的な歴史ではなく、祖父個人の人生にとって忘れがたい特別な出来事であったことをうかがわせます。金木犀の香りは、そのプライベートな記憶を呼び覚ますための鍵として機能しているのです。
- 2. 「研究記録」にしては、あまりに詩的で感傷的です。
- 3. 「死期を悟らせる予兆」とまでは読み取れません。
- 4. 「町の歴史」ではなく「祖父一人の歴史の一ページ」だと主人公は解釈しています。
【設問2】主人公が、祖父のノートを「どの古文書よりも、価値のあるもののように思えた」のはなぜか。その理由として最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- そのノートに祖父の遺産のありかが記されていると直感したから。
- 郷土史研究家としての公的な顔だけでなく、一人の人間としての祖父の素顔に触れられたと感じたから。
- 祖父の手書きの文字があまりに美しく、芸術的な価値があると感じたから。
- 祖父の研究を引き継ぎ、ノートに書かれた謎を解き明かしたいという使命感を抱いたから。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「遺産」のような物質的な価値の話ではありません。
- 2. 主人公にとって祖父は、まず「郷土史の研究家」でした。書斎は、その公的な業績で埋め尽くされています。しかし、彼女が偶然見つけたノートの一文は、研究者としての顔の裏に隠された、祖父の個人的な感傷や誰も知らない思い出の世界を垣間見せます。このノートは彼女にとって、無味乾燥な「資料」ではなく、祖父という一人の人間の生きた証そのものとして感じられたのです。だからこそ、他のどんな歴史的な資料よりも「価値がある」と思えたのです。
- 3. 文字の「美しさ」が価値の本質ではありません。
- 4. 「謎を解き明かしたい」という知的好奇心よりは、祖父の秘密をそっと胸にしまっておきたいという愛情が感じられます。