現代文対策問題 89
本文
その日の帰り道は、雪が降っていた。私は駅前のバス停で、最終バスを待っていた。冷たい雪が、コートの肩に静かに積もっていく。バス停には私の他に、もう一人同じくらいの年の女性がいた。彼女も私と同じように、俯いてじっとアスファルトを見つめていた。
予定の時刻を過ぎても、バスは来ない。雪のせいで遅れているのだろう。沈黙が重い。私たちは互いに存在を意識しながらも、言葉を交わすことはなかった。ただ、時折彼女が寒そうに白い息を吐くのが見えた。
不意に、彼女がバッグの中から何かを取り出した。それは、銀色に包装された一枚のチョコレートだった。彼女はそれを半分に割ると、片方を口に入れた。そして、何も言わずに残りの半分を私に差し出した。
「え……」
私が戸惑っていると、彼女は少しだけ笑って、こくりと頷いた。私はおそるおそる、そのチョコレートを受け取った。指先が少しだけ触れ合った。口に入れると、甘い味がゆっくりと広がった。冷え切った体に、その甘さがじんわりと沁みた。
やがて、遠くにバスのヘッドライトが見えた。バスに乗り込む時、私たちは初めて互いに小さく会釈をした。名前も知らない彼女。明日にはもう、顔も忘れてしまうだろう。でも、あの雪の夜のバス停で分かち合ったチョコレートの甘さだけは、きっとしばらく忘れない。そんな気がした。
【設問1】傍線部「そして、何も言わずに残りの半分を私に差し出した」という女性の行動に込められた意図として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 自分が持っている高級なチョコレートを自慢し、優越感を味わいたいという気持ち。
- 見知らぬ相手に親切にすることで、自分を善良な人間だとアピールしたいという自己満足。
- バスを待つ間の手持ち無沙汰を解消するため、軽い気持ちでお菓子を分け与えた。
- 同じ状況でバスを待つ相手への、言葉にはならない共感とささやかな慰めの気持ち。
【正解と解説】
正解 → 4
- 1. 「自慢」や「優越感」といった感情は、この静かで抑制の効いた場面にはふさわしくありません。
- 2. 「自己満足」のためにしては、あまりにさりげない行動です。
- 3. 「手持ち無沙汰の解消」という軽い気持ちだけでは、説明できない温かさがこの行動にはあります。
- 4. 雪の降る夜のバス停で、来ないバスを待つ。二人は言葉を交わさずとも、その寒さや心細さを共有しています。女性がチョコレートを半分差し出したのは、そんな同じ境遇にいる相手への静かな共感のしるしです。甘いものを分かち合うというささやかな行為を通じて、彼女は「あなたも寒いでしょう」「もう少し頑張りましょう」という無言のメッセージを送っているのです。
【設問2】この出来事を通して、主人公の「私」の心はどのように変化したか。最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 見知らぬ人から施しを受けたことに屈辱を感じ、心がさらに冷え込んだ。
- チョコレートの甘さに癒され、バスの遅れに対する苛立ちが完全に消えた。
- 都会の人間関係の希薄さを改めて痛感し、孤独感を深めた。
- 予期せぬ人の温かさに触れたことで、寒さと心細さが和らぎ、心が温まった。
【正解と解説】
正解 → 4
- 1. 「屈辱」ではなく、むしろ感謝の気持ちを抱いています。
- 2. 「苛立ちが完全に消えた」とまでは言い切れませんが、気持ちが和らいだことは確かです。
- 3. 「希薄さ」ではなく、むしろその逆で、見知らぬ人との間に生まれたささやかなつながりを感じています。
- 4. 物語の冒頭で、彼女は寒さと沈黙の中で孤独を感じていました。しかし、一枚のチョコレートを分かち合うというささやかな出来事が、その冷たい空気を一変させます。「口に入れると、甘い味がゆっくりと広がった。冷え切った体に、その甘さがじんわりと沁みた」という描写は、物理的な感覚と心の温かさが連動していることを示しています。この見知らぬ他者との一期一会の交流が、彼女の孤独感を癒したのです。